【第1部】49歳エステティシャン、女性専用サロンに現れた「最初で最後の男性客」
私の名前は、結衣(ゆい)・49歳。
地方都市の駅から少し歩いたところにある、小さなエステサロンを夫と二人で切り盛りしている。
といっても、店内にいるのはほとんど私だ。
夫は裏方で会計やホームページの更新を手伝ってくれるだけで、ベッドの上の「肌」と向き合うのは、いつだって私の役目だった。
サロンは完全予約制の女性専用。
育児が落ち着いた主婦、仕事に追われるOL、介護で肩と腰を削られた50代、
みんな自分のことを後回しにしてきた人たちが、
ふいに「女としての自分」を思い出しに来るような場所。
私自身も、そうやって自分を思い出したかったのかもしれない。
夫との関係は、悪くはない。
ただ、同じ枕を並べるようになって二十年を過ぎると、
肌と肌は「確認」ではなく「既成事実」として並んでいるだけのように感じる夜が増えていった。
そんなある日、かかりつけの整形外科の先生から一本の電話が入った。
「術後のむくみがひどくてね。
リンパを流すオイルマッサージを、専門の人にやってほしいんだ。
27歳の男性なんだけど、受けてもらえるかな?」
女性専用サロンに男性客。
普段なら瞬時に「申し訳ありません」と断っていたはずなのに、
その日はなぜか、喉の奥で言葉が引っかかった。
「……術後のケア、ですよね。顔ではなく脚なら、
ベッドも機材も問題ないです」
自分の声が少しだけ上ずっているのがわかった。
電話口の先生は安堵したように笑い、詳しい状況を説明してくれた。
若い男性。
骨折手術の後、ギプスが外れてから片脚だけが不自然にむくみ、
リハビリと弾性ストッキングだけでは追いつかない状態。
医師としては循環をよくするために、
リンパドレナージュの専門家に任せたい──。
「患者」ではなく、「お客様」。
だけどその中間のような存在が、
私の小さなサロンの扉をたたくことになった。
施術当日は定休日。
機材の研修も兼ねて、後輩の女性スタッフが二人。
そして、彼の母親も付き添いで一緒に来るという。
女性専用サロンの中に、唯一の男性。
その異物感を想像しただけで、
胸の奥がわずかにきゅっと締めつけられる。
扉が開いた瞬間、その感覚は確信に変わった。
「本日は、よろしくお願いします」
深々と頭を下げた青年は、
白いマスク越しでもわかるほど整った顔立ちをしていた。
術後のせいか少し痩せていて、
ジャケットの下から覗くシャツの襟首が、
鎖骨のラインをわずかに浮かび上がらせている。
(……こんな、きれいな子なんだ)
思ってはいけない感想だと分かっているのに、
まっさきに頭に浮かんだのは仕事ではなく、女としての感嘆だった。
問題は、そこからだった。
うちは女性専用サロン。
男性サイズの紙ショーツなんて、当然置いていない。
彼用に用意できたのは、
脱毛や鼠径部マッサージのときにだけ使う、一番大きいサイズのペーパーショーツ。
両サイドが細いゴムだけでつながれた、
「隠す」というより「かろうじて布がある」ことを示すためのもの。
ふだんは慎重にタオルワークを重ね、
女性のお客様の羞恥心を少しでも和らげるためのアイテムだったそれが、
その日は突然、異様に生々しい存在に見えた。
「着替え、手伝ってあげてくれる?
片脚がまだ不安定だから」
母親の一言で、私は準備室に彼と二人で入ることになった。
ロッカー室でお客様に一人で着替えてもらうのが、いつもの流れ。
その「当たり前」が崩れた瞬間、
私の胸の内側で、別のスイッチまで一緒に入ってしまった気がした。
(……見たいなんて、思っちゃダメ)
そう言い聞かせながらも、
美しい横顔と長い睫毛を見てしまった眼は、
すでに「施術者」の境界線から数歩はみ出していた。
【第2部】紙ショーツとオイルの間で揺れる距離──プロとしての手つきと女としての視線
準備室は、ベッドひとつ分の狭い空間。
私と彼の距離は、腕を伸ばせば届くどころか、
息を吸えば空気が触れ合うほど近かった。
「すみません、自分でやりますから」
彼はそう言って笑ったけれど、
ぎこちなくズボンを脱ぐと、
固定されていたほうの脚がわずかにふらついた。
反射的に、私は彼の肘を支える。
指先に、若い筋肉の硬さと、
リハビリ中ならではの不安定な震えが伝わってきた。
「大丈夫ですか? ゆっくりでいいですよ」
「はい……すみません。こういうの、慣れてなくて」
こういうの。
彼の言う「こういうの」が、
女性ばかりのサロンで紙ショーツに着替えるという状況なのか、
それとも、見知らぬ女の人に支えられることなのかは分からない。
ただ、彼の耳たぶがうっすら赤くなっているのを見て、
私のほうの心拍数も、少しだけ早くなった。
ペーパーショーツを手渡すと、
彼は迷うようにそれを広げ、
「これ、前ですよね?」と照れ隠しのように笑った。
「そうです。えっと……サイズがぎりぎりなので、
ゴムを伸ばしながら、丁寧に通してみてくださいね」
(本当は、丁寧に通してほしくない。
雑に通して、すべてが乱れたほうが、女としての私の好奇心は満たされるのに)
そんな本音を胸の奥深くに押し込めながら、
私はあくまで淡々と「プロ」の声色を保つ。
片脚を通すときにバランスを崩しかけた彼を、
私はまた支えた。
今度は、私が膝をつく。
視線の高さが、彼の腰のあたりに揃う。
布一枚を隔てた、なまの温度と鼓動。
ペーパーショーツのゴムが、
彼の太ももに少し食い込む。
布は、ただそこに「あるだけ」で、
決してすべてを覆いきれてはいない。
「すみません、きついですか?」
思わず口をついて出た質問は、
サイズのことを心配しているようでいて、
実際には自分の心の狭さをごまかすためのものだった。
「いや……大丈夫です。
なんか、恥ずかしいですね、こういうの」
その言葉に、私も同じように笑った。
恥ずかしいのは、きっと彼だけではない。
プロとしてここにいるはずの私のほうが、
本当はもっと、どうしようもない場所まで
心が滑り落ちていきそうになっている。
着替えが終わり、施術室のベッドに彼を横たえる。
照明をいつもより一段階落とすと、
白いシーツの上で彼の脚のラインだけがくっきりと浮かびあがった。
「では、右脚から触れていきますね。
痛みがあったらすぐに言ってください」
温めたオイルを手のひらに落とし、
足裏からゆっくりとなじませる。
仕事モードに入ろうとすればするほど、
指先はいつも以上に敏感になった。
むくんだ足首の重さ、
ふくらはぎの張り、
太ももへとのぼっていくにつれて変わっていく、皮膚の質感。
オイルを滑らせるたびに、
彼の呼吸がわずかに変化する。
「くすぐったくないですか?」
「……なんか、気持ちよくて。
変な意味じゃなくて、ですよ?」
彼の慌てたような言い訳に、
ふっと喉の奥が緩む。
「大丈夫ですよ。
気持ちいいって感じてもらえるのは、私の仕事のご褒美ですから」
自分でそう言った瞬間、
それが「施術者」のセリフなのか、
「女」のセリフなのか分からなくなる。
膝裏から太ももの裏へ、
さらにヒップラインの手前まで、
私は淡々と、しかしどこかで震える心をなだめながら
オイルを広げていく。
彼の脚がわずかに動くたび、
紙ショーツのゴムがかすかにずれる音がする。
絶対に覗き込まないように視線を制御しながら、
私は自分の「見たがり」の本性と戦っていた。
(ここで視線を落としたら、
私はもう、ただの女になる)
オイルを流す私の手つきだけが、
唯一、揺らぎなく「プロ」であり続けていた。
【第3部】二人きりになった定休日──触れなかった場所と、触れてしまった心の奥
彼が二度目の施術に来たのは、一週間後の同じ曜日だった。
今度は、母親の姿はなかった。
「職場復帰の準備もあるので、今日は一人で行かせます」
と、予約の電話で聞いていた。
サロンには私と、研修の後輩スタッフが一人。
彼女には表の掃除とタオルの洗濯を頼み、
私はまた、定休日の静かなBGMの中で彼を迎えた。
「前回、すごく脚が軽くなって。
先生にも『続けたほうがいい』って言われたんです」
そう言って笑う彼の表情には、
前回よりも少し余裕があった。
準備室での着替えは、今度は彼一人でできるはずだった。
そう「決めて」いたのに、
扉の向こうから聞こえてくる衣擦れの音に、
私は耳を澄ませてしまう。
(見に行く理由なんて、どこにもない)
そう分かっていながらも、
「片脚がまだ不安定だから」という医師の言葉が、
都合のいい言い訳として頭の中で蘇る。
ノックをして扉を開けると、
彼はちょうどペーパーショーツを腰まで引き上げたところだった。
「すみません、邪魔でしたよね」
「いえ……転びそうになったら呼んでくださいね」
言葉は当たり障りのないものだったけれど、
視線が合った瞬間、
互いに何かを共有してしまったような沈黙が落ちた。
施術室に移るとき、
彼はふと振り返った。
「この紙のやつ、最初は恥ずかしかったんですけど……
なんか、もう大丈夫になりました」
「慣れ、ですか?」
「結衣さんだから、かもしれないです」
名前を呼ばれた瞬間、
胸の奥で何かが小さく弾けた。
仕事中は、お客様から苗字で呼ばれることがほとんどだ。
それがいつの間にか、
彼だけが知っているような「結衣さん」に変わっている。
ベッドに横たわる彼の脚は、前回よりも明らかに軽く、
むくみも引いていた。
足裏からオイルをなじませながら、
私はあくまで冷静にその変化を確認する。
それでも、
**指先が覚えている前回の「温度」**が、
ときどき私の呼吸を乱した。
足首、ふくらはぎ、膝裏。
順に触れていくうち、
彼のほうも前回よりリラックスしているのが分かる。
「仕事、戻れそうですか?」
「はい。まだ長時間立つのは怖いですけど……
ここでほぐしてもらうと、すごく安心するというか」
「安心、ですか」
「なんか、全部預けていい感じがして」
「全部」という言葉が、
私の耳の中でゆっくりと反響する。
預けるのは、脚の重さだけ。
痛みと不便さだけ。
本当はそれ以上を求めてはいけないと分かっているのに、
私は一瞬、想像してしまった。
もしもこの手が、
仕事では触れない場所までオイルを伸ばしてしまったら──。
紙ショーツのゴムのライン。
そこから先は、
プロとしての私の領域ではない。
でも、女としての私の想像は、
その境界線を指先でなぞるように、静かに越えていく。
「力加減、どうですか?」
「……ちょうどいいです。
眠りそうなくらい気持ちいいです」
彼の声が少しかすれたように聞こえたのは、
本当に眠気のせいだったのか、
それとも、別の何かのせいだったのか。
太ももの裏を流し、
ヒップラインの手前で止まる。
「ここから上は控えますね」と言葉にすることで、
私は自分にブレーキをかけた。
「はい。
結衣さんが決めることで、大丈夫です」
その一言に、
私たちのあいだの信頼と、
薄い緊張が同居しているのを感じる。
施術が終わり、
最後に脚全体をタオルで包む。
オイルで温まった肌の上から、
そっと両手で圧をかける。
ただそれだけの動作なのに、
彼の呼吸と私の呼吸が、
一瞬だけ同じリズムを刻んだ。
「本当に、ありがとうございました。
また来週も、お願いしていいですか?」
「もちろんです。
ここにいるあいだくらいは、脚も心も軽くなってもらえたら嬉しいです」
サロンの扉が閉まってから、
私はしばらく、
オイルのボトルと紙ショーツの棚を見つめて立ち尽くした。
触れなかった場所と、触れてしまった心の奥。
その両方の境界線が、
まだ手のひらの中でじんわりと熱を持っていた。
【まとめ】プロとしての手と、女としての心──「触れない選択」が教えてくれたこと
あの日から、彼は何度か定期的にサロンに通ってきた。
ぎこちなかった歩き方も、
ペーパーショーツに戸惑っていた恥じらいも、
少しずつ薄れていく。
代わりに増えていったのは、
「最近、仕事どうですか?」
「前に言ってたお客様、うまくいきました?」
そんな、ささやかな会話だった。
私の手は、いつもと同じ順番で脚をなぞる。
足裏から、ふくらはぎ、膝裏、太ももの裏へ。
仕事としての動きは変わらない。
だけど、心の中で見ている景色は、
明らかに以前とは違っていた。
彼が息を吐くたびに、
私の心のどこかがわずかに震える。
紙ショーツのゴムのラインを見るたびに、
「越えない」と決めた境界線を、
もう一度なぞり直す自分がいる。
もし私が、
その境界線を越えてしまったら──。
一時の昂ぶりの代わりに、
プロとしての信用も、
エステティシャンとしての自尊心も、
きっとすべて失ってしまうだろう。
だから私は、
触れないことを選んだ。
触れない代わりに、
指先の意識を研ぎ澄ませ、
彼の脚の奥に溜まった疲れと不安だけをすくい上げるように、
オイルを流していく。
その行為自体が、
いつの間にか私自身の「渇き」を、
ゆっくりと潤していることに気づきながら。
「結衣さんの手って、なんか安心するんですよね」
そう言って笑った彼の言葉は、
女としての私を甘く刺激しながらも、
同時に、プロとしての私を支えてくれた。
私はきっと、
あの紙ショーツの下にあるすべてを
見ることも、触れることもなく
この仕事を終えていくのだろう。
けれど──
**「触れないまま、ここまで近づいた」**という記憶は、
肌と肌を重ねた瞬間よりもずっと深く、
私の中に残り続ける気がしている。
オイルの香り。
温めたタオルの湿度。
定休日の静かなサロンに響く、
彼の呼吸と私の呼吸。
その全部が、
私にとっての「エッチな体験談」だ。
誰にも語らない、
紙ショーツとオイルに挟まれた、
ぎりぎりの距離の記憶。
49歳の私は今も、
ベッドのそばで手のひらを合わせるたび、
ときどきあの日の熱を思い出しながら、
それでもプロとしての境界線を、
静かに、何度でも引き直している。



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