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【第1部】真夏の市営プールで気づいた、親友の視線とわたしのざわめき
社会人2年目の夏、私は有休をまとめて取って、久しぶりに地元へ帰省しました。
東京での暮らしはそれなりに楽しいけれど、どこかいつも急かされていて、息が上がったまま休めない感じがしていて。駅前の喫茶店も、通い慣れた商店街も、少し色あせて見えるのに、空気だけがやわらかくて、帰ってきたんだな、と思いました。
その夏、いちばん会いたいと思っていたのが、裕子でした。
同い年の彼女は地元の会社に就職していて、私は短大卒業後に都内で事務職。連絡はたまに取っていたけれど、会うのは本当に久しぶりで、待ち合わせのときから心臓が変に落ち着かなかったのを覚えています。
「市営プール、まだあるかな?」
「あるよ。せっかくだし、行こっか。久しぶりにさ」
そう言い出したのは裕子でした。
小さい頃から通っていた、あの少し古びた市営プール。小学生の歓声が響いていて、ビート板の音と、監視員の笛の音が混ざった、独特のにぎやかさ。照り返す日差しが水の表面で細かく砕けて、眩しくて目を細めてしまう。
更衣室で、それぞれ持ってきた水着に着替えていく。
大人になってから、友達とプールに来るなんて考えたこともなかったから、鏡に映る自分の身体を見て、なんとなく落ち着かなくなりました。学生時代より腰まわりが少し女性らしくなって、胸の形も変わった気がする。自意識の輪郭だけが妙にくっきりしていく。
「…久しぶりに見る由美の水着姿、なんか新鮮」
「え、やだ、なにそれ」
「前より、ずっと女の人って感じがする」
裕子は、からかい半分、本気半分みたいな声でそう言って笑いました。
その一言が、あとで何度も頭の中で反芻されることになるなんて、そのときは思いもしなかったけれど。
水に入ると、全身が一気に冷やされて、さっきまでの恥ずかしさが少しだけ薄まる。
子どもたちがはしゃぎながら泳ぎを真似している向こうで、私たちは浮き輪にもたれたり、潜ってみたり、昔と同じみたいにふざけ合いました。
けれど、途中から私は、裕子の視線を妙に意識するようになりました。
私が髪をかきあげるとき。
水からあがって肩に水滴がつたうとき。
ビキニのストラップを直そうと手を伸ばした瞬間。
ほんの一瞬のことなのに、「見られている」と肌が知らせてくる。
嫌ではなく、むしろその視線に触れた場所だけ、温度が上がるような感覚。
「ちょっと、くすぐったいから変なとこ触らないでよ」
「触ってないし。ただ、由美の身体、大人になったなぁって思ってただけ」
笑いながら、水の中で腰を引き寄せられる。
誰が見ても、ふざけてじゃれているようにしか見えない距離感。でも、肌に伝わる圧と、水着越しに感じる指の位置で、境界線が少しずつ曖昧になっていくのがわかりました。
胸のあたりが、じわじわと熱を帯びていく。
それは日差しのせいだけではなくて、「彼女に見られている」という意識がつくり出す、内側からの熱でした。
【第2部】二度目のプール、静かな水面の下で触れてしまった「女としての距離」
お盆も仕事をしていた代わりに、裕子は平日に休みをもらえたらしく、
「また行こうよ、市営プール」とメッセージが届いたのは、私が帰省して数日後のことでした。
平日の午後、小学校はすでに始まっていて、プールは驚くほど空いていました。
広い水面の半分以上が、薄い水色だけで満たされている。遠くで数人が泳ぐ音がするだけで、昨日までの喧騒が嘘みたいに静かだった。
「なんか、貸し切りみたいだね」
「いいじゃん。ゆっくりできるし」
更衣室で隣り合って、また水着に着替える。
前回よりも、私は裕子の視線を、そして自分の身体のラインを意識しながら、水着の肩紐を直していました。
「ねえ、見せっこしよっか」
「…は?」
「前も言ったじゃん。大人になった身体、ちゃんと見てみたいなって」
冗談みたいな言い方なのに、目だけが真剣で、そのギャップに喉がカラカラになる。
「ちょっとだけだよ」と小声で返して、私はしぶしぶビキニの上を外し、背中を向けたまま布をずらした。
「…綺麗」
背中越しに落ちてきたひと言が、素肌のどこかに触れたみたいにぞくりとした。
「高校のときより、全体的に…女の人だね」
横からそっと伸びてきた指先が、肩のあたりをなぞる。
その軌跡を追いかけるように、鳥肌と、じわりとした温度が一緒に広がっていく。
「や、もう、いいから。早く水、行こ」
「うん。…ね、後でさ、ちゃんと話そうね」
「ちゃんと話そう」という言葉の意味を、私はそのとき正確には理解していなかった。
でも、何かが決定的に変わりかけている予感だけは、胸の奥でずっとざわめいていた。
水に入ると、外気との差でいっそうひんやりと感じる。
白いタイルの上にゆらゆら反射する水面を眺めながら、私たちは並んで歩いたり、他愛もない話をしたりしていました。仕事の愚痴、上司の癖、東京での生活のこと。
一見、ただの友達同士の会話。
けれど、ふいに裕子が近づき、耳元に口を寄せてくると、それだけで全身の感覚が研ぎ澄まされる。
「ねえ、由美」
「ん?」
「わたしさ、ずっと思ってたんだ。由美のこと、友達以上に好きかもしれないって」
水音が、遠くへ引いていく。
代わりに、自分の心臓の音だけが、胸の内側でくっきり聞こえるようになる。
「…女同士なのに?」
やっとのことでそう返すと、彼女は少し笑って首を傾げた。
「女同士だから、かも。だって、高校のときからずっと、いちばん近くで見てきたでしょ?変わってく由美の顔も、身体も、ぜんぶ」
その言葉に、なぜか全身が熱くなっていく。
誰よりも近くで自分を見てきた存在に「好き」と言われる、その重さと甘さ。
彼女の手が、水の中でそっと私の指先に触れる。
つなぐでもなく、離れるでもなく、境界線を探るような微妙な距離感。
水を伝ってくる体温が、直接触れ合うよりもむしろ生々しく感じられて、呼吸が浅くなっていった。
【第3部】夏の終わり、触れた肌よりも深く残る、秘密の余韻と約束
その日、私たちは、誰にも見つからないような静かな端のほうで、長い時間を過ごしました。
水面は穏やかで、ときどき風が吹くと、さざ波が陽の光を砕いて、私たちの身体に複雑な影を落とした。
「ここなら、あんまり人、来ないよね」
「…たぶん」
裕子は、わざとらしくない自然な動きで、少しずつ距離を詰めてきた。
肩が触れ合い、腕が触れ合い、互いの太ももが水中でかすかにぶつかる。
「怖かったら、やめるから言ってね」
「こわい…けど、いやじゃない」
そう答えた瞬間、自分の声の震え方で、自分の本心を理解する。
怖いのは、何かを失うことではなくて、何かを知ってしまうことなのだと。
水中でそっと指を絡められる。
そのまま、裕子は私の手を引いて、自分の胸の上に置いた。布越しに感じる心臓の鼓動は、驚くほど速かった。
「ほら、私も、ドキドキしてる」
「…うん」
彼女だけが特別なんだ、と身体が先に納得していく。
視線が絡まり、近づいて、唇がふれるかふれないかの距離で止まる。
水の匂いと、一緒に使った日焼け止めの甘い香りが混ざり合って、世界が少しぼやけた。
かすかなキスは、思っていたよりもずっと静かで、でも全身にひろがっていく波紋は大きかった。
触れた唇より、むしろ離れたあとの空気のほうが熱くて、苦しい。
「由美が、女の子だから好きなんだと思う」
「どういう意味?」
「男の人には、こんなふうにドキドキしたことないから」
その言葉に、ずっと胸の中でまとわりついていたもやが、少し形を持ち始める。
“普通”じゃないのかもしれない。それでも、今感じているものだけは、まぎれもなく本物だと思った。
夏休みが終われば、私はまた東京に戻る。
頻繁には会えない。それでも、何事もなかったみたいに「友達」に戻ってしまうには、もう、遅すぎた。
帰り道、プールの駐車場で、夕焼けを背にして並んで立つ。
蝉の声が遠のいて、代わりに、風が乾いたアスファルトをなでていく音だけが聞こえた。
「由美、東京戻ってもさ…ちゃんと連絡していい?」
「当たり前じゃん。っていうか、して。しないと、さみしいから」
「うん。たぶん、今よりもっと好きになっちゃうけど…それでもいい?」
一瞬、喉の奥がきゅっと閉まった。
でも私は、ゆっくり息を吸って、笑いながら答えた。
「…たぶん、私もそうだから。いっしょに困ろうよ」
そう言いながら、手の甲だけをそっと重ねる。
指を絡めるよりも、ずっと慎ましい、その小さな接触が、この夏だけの秘密の印みたいに感じられた。
夏の秘密を抱えたまま、わたしは「普通じゃないかもしれない自分」を少しだけ好きになった
あの市営プールでの二度の午後を、私はきっと一生忘れないと思う。
水面に映った自分の身体も、視線をまっすぐ受け止めてくる裕子の瞳も、唇に残った淡い感触も。
「女の子を好きになる自分」は、どこか“いけないこと”のようにも思えた。
でも、あの日の私の心臓の高鳴りも、肌の奥で目を覚ましたようなざわめきも、あまりにも生々しくて、嘘にはできなかった。
あれからも、裕子からのメッセージは毎日のように届く。
仕事の愚痴、夕飯の写真、眠れない夜のひとこと。
画面越しに届く言葉の一つひとつに、私はいつも少しだけ深く息を吸い、返事を慎重に選ぶようになった。
「このまま、どんどん好きになっていいのかな」
そう迷う気持ちは、まだ完全には消えていない。
けれど、あの夏の水の冷たさと、夕焼けの色と、触れた唇の温度を思い出すたびに、私は少しだけ、自分の“好き”を信じてみてもいいのかもしれないと思えるようになった。
もしまた、来年の夏も同じプールに行くことができたら——
そのとき私は、今年よりも少しだけ、自分の気持ちに正直な顔で、あの水の中に立っていられたらいいな、と密かに願っている。




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