京町家書道塾の実話体験談|元塾生と交わした“落款”のような一度きりの午後

【第1部】墨はまだ乾かない──京町家の午後、視線だけで濡れていく予兆

日曜日の三時。
障子に掬われた冬陽が、畳の目に淡い筋を落とす。白檀の香りが浅く満ち、硯の水面は細く震えている。私の手は、穂先の膠をほどくように根元をほぐし、繊維が嘘をつかない瞬間を待っていた。

「先生、ただいま」
そう言って玄関をくぐるのは、二十歳になった元塾生だ。二年前、高校の卒業制作で「佳氣満高堂」を揮毫して去っていった彼は、今は大学で理学を学び、夜は喫茶で働くという。細く締まった指、無駄のない肩の線。少年の輪郭は抜け落ち、骨の配列に自信の影が宿っていた。

「あなたの落款、まだこっちで預かっているの」
文机の引き出しから印を出すと、彼は思いのほか嬉しそうに笑った。その笑みは私の胸腔に、静かな熱をそっと置いていく。
「久しぶりに、一本だけ書いていきましょう」
「お願いします」

硯に水を落とす。ぽとり、という一音が、京町家の空気を一段、深くする。
彼が腕をまくる所作は正確で、焦らない。腕の内側に柔らかい産毛がつやめき、そこへ射し込む光が、紙よりも白い。私はその白さに目を細め、視線を逸らしたふりをして、耳の温度が上がるのを待つ。

一画目の起筆は、迷わない。
毛先が滲みを抱え、紙の繊維に熱を渡す。彼の呼吸が浅くなり、喉仏が一段、上下する。二画、三画。筆圧が変わるたび、私の下腹部のどこかで、小さな弦が張り替えられていく。触れられていない。けれど、湿りは始まっていた。

仕上げの押印。印泥の朱が紙に吸われる刹那、彼の手の甲の血管が脈打つ。私は喉の奥で短く音を立て、唇を噛む。
「いい線ね」
「先生が、そう言ってくれると安心します」
「安心なんて、不要。いまのあなたは、線に迷いがない」
そう言いながら、自分がいちばん迷っている場所を、私は知っていた。

――この湿度は、どこへ置けばいいのだろう。
視線が絡み、はずれ、またそっと戻る。その往復運動だけで、体はわずかに脈を早めていく。障子の白がにじみ、墨の香が胸の乾きをやさしく脅かす。何も起きていないのに、起きてしまった後のような余韻だけが先に来ていた。

「乾くまで、別室でお茶を」
私が立ち上がると、彼は一呼吸遅れて「はい」と答えた。その遅れのぶんだけ、私の内側の水位が上がる。


【第2部】白檀の間(あわい)でほどける理性──指・舌・喉、言葉より先に濡れる

坪庭の見える小間。
茶器から立ちのぼる湯気がゆるく揺れ、香の煙が天井へ細い線を描く。座す位置を半身だけずらすと、彼は自然に間合いを合わせた。言葉の往復は少し、身体の往復はまだ、という距離。

「大学は、どう」
「難しいです。でも、面白い」
短い報告の中に、ほんのわずか、私のために音程を低くしてくれる優しさがある。声の底のその温度が、舌の根を撫でるように伝って、喉を通り、胸を過ぎ、骨盤の奥に沈む。ここまで触れていない。なのに、触れられた部位だけが数を増やしていく。

湯呑を置く音が重なる。無意識に近い呼吸の同期。
私は彼の人差し指に視線を落とす。紙を愛してきた指。毛筆の束を的確に扱うために、握り締めるより、ほどくのが上手い指。
「手、貸して」
そう言って、手の甲から手首へ、掌の中心までを、ゆっくり撫でる。触れたのは皮膚のはずなのに、私が触っているのは、彼の呼吸の温度だった。

「先生」
名前ではなく、呼ばれ慣れた敬称。けれど声の湿度がいつもと違う。
私は軽く首を振る。「ここでは、名前で呼びなさい」
彼が私の名を、少し躊躇って、言う。その二音が、白檀より甘く、墨より深い。
「……はい」
「いい子」
褒める言い方を選んでしまった自分に、軽い羞恥が走る。羞恥は私を冷静にする代わりに、欲望の輪郭をくっきりさせる

唇を近づける。頬の骨をかすめ、耳たぶのすぐ下で止まる。触れたか触れていないかの縁(へり)を、息だけで撫でる。
彼の背筋が、ごく薄く波打つ。
私は囁く。「ここまで?」
彼は首を横に、小さく。音を宿さず、意思だけをくれる。

それは合図だった。
指先がうなじの毛流れをほどき、舌が鎖骨のくぼみに短く降り、喉の奥がかすかな声を飲み込む。布の重なりは、一気にではなく、一枚ずつ“理性の層”として外されていく。
畳に膝をついて、肩から胸へ。肌の温度は均質ではない。外気に触れた場所はひんやり、血が集まる場所は密やかに熱い。
私はその地図を指でなぞり、舌で確かめ、歯の影で記憶する。

体位は、情動の配列に従って自然に移る。
最初は横座りの近接。膝と膝、肘と肘、頬と頬。ほとんど重ならないのに、体重だけ少し預ける。
次に俯き合いの抱擁。互いの呼吸が頬に当たり、声にならない声が、喉で擦れて消える。
そして、仰ぐ角度の重なり。視線が逃げ場をなくし、瞳孔が開く。

どの配置でも、私は“押す”より先に“ほどく”。
彼は“奪う”より先に“受け止める”。
二人のやり方が合わさったとき、内側の乾きは湿りへ、湿りは波へ変わっていく。

言葉は少ない。
けれど、言葉よりも正確な会話が、唇と舌と喉の深さで続く。
私は自分の奥が音のない音で鳴るのを聴く。彼の指が私の背骨の棘(とげ)を数え上げるたび、体は自分の温度を一度、上げる。

「……もう、戻れないね」
私が言うと、彼は頷かず、けれど視線で「戻りたくない」と答えた。


【第3部】理性の縁が崩れるとき──満ちて、なお渇く余韻を抱いて

京町家の静寂は、音を増幅しない。
だからこそ、震えのわずかな差異が、はっきりと伝わる。
指先の震え、腹の奥の脈、喉の奥で解ける息。どれもが、少しずつタイミングをずらしながら、互いを誘い、重ね、一度きりの一致に向かっていく。

視界の白はにじみ、障子の桟(さん)が波打って見える。体の奥で波が立ち、崩れ、押し寄せる。
私は自分の名を、私自身の口で、息の切れ目に落とす。
彼は私の名を、私の耳に、喉の底で言う。
その二音が重なる瞬間、心と体の境目がほどける

大きな声は要らない。
体がすべてを語り、語り終える。
長く、静かな呼気。
汗が細い道を選んで、鎖骨から胸、みぞおちへ。最後は畳に吸われ、痕跡だけが残る。

沈黙が戻ると、私は不意に冷静になる。
喪失ではない。
でも、満ちたはずの場所に、微かな空白が生まれる。
それは、次の一滴を待つ硯の水面に似ている。

「……ありがとう」
彼が先に言う。
感謝は、快楽の外に置いてしまうと味が薄くなる。けれどいま、それは正しい位置にあった。
私は頷き、額を彼の額に寄せる。
「このことは、私たちだけの“落款”にしましょう」
「はい」
短い返事。確かな温度。

やがて、湯呑の中の茶は冷め、香の線は細く薄くなる。
障子の外、冬陽が一度だけ揺れた。
身体は重ね終えたのに、心はまだ濡れている
声の残響、汗の薄膜、触れた場所の記憶。
それらを抱えたまま、私は静かに息を整える。
完全に満ちたからこそ、ほんの少しだけ、渇く。
その微かな渇きが、次の物語の入口になる。

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