都心から電車を乗り継ぎ、車でさらに山道を三十分。
隣県の山奥にある、木造三階建ての古びた旅館。
強引に連れて来られた家族旅行だった。
高校を卒業して間もない春。
友達と遊ぶ予定もあったのに、両親と姉の「家族の思い出になるから」という言葉に流されて、しぶしぶ付き合った。
道中から機嫌は悪かった。
旅館に着いても、予想通りだった。
古くて、湿気っぽくて、スマホは圏外。
ゲームコーナーは昭和から時間が止まっているようで、どこを見ても“古くさい”の一言に尽きた。
「ほんと、最悪」
ため息ばかりついていた私に、誰も気をとめる家族はいなかった。
チェックイン後、部屋に荷物を置いて、夕食までの時間を持て余しながら、大浴場へと足を運んだ。
湯は熱すぎず、露天風呂も確かに広かったけれど──正直、そこまで感動するものではなかった。
あまりに静かすぎる場所。
鳥の声と風の音だけが響くこの世界は、私には窒息しそうに思えた。
湯から上がり、浴衣を身にまとい、髪を乾かすのもそこそこに館内を歩いていた。
長い廊下の先。
チェックインカウンターのあるラウンジに入ったとき、私は視線を感じた。
そこにいたのは、一人の男性だった。
五十代くらいだろうか。
小柄で、少し太っていて、白いTシャツに浴衣を羽織ったまま、新聞を読んでいた。
だらしない印象のなかに、どこか人懐こい空気を纏っている。
彼の目が、ちらりと私を見た。
私は無言で視線を返し、ラウンジのソファに腰を下ろした。
──あ、見てる。
彼の視線が、何度も私を往復するのを感じる。
それも、足元から胸元までゆっくりと。
露骨というより、妙に慎重で、でも隠そうともしないその“間”に、私は言いようのない興奮を覚えていた。
「初めての宿?」
不意に話しかけられて、私はうなずく。
「強制連行されてきました。家族旅行で」
彼は笑った。
それから他愛のない会話が続いた。
この旅館に昔から通っていること。
温泉街の移り変わり。
この場所の静けさが好きなこと。
話しているうちに、彼の視線が何度も私の浴衣の隙間を覗き込んでいるのを感じた。
不快ではなかった。
むしろ、その“見てる”感じを、私はどこかで楽しんでいる自分に気づいていた。
そのあと、私は「散歩してくる」と言って席を立った。
すると、彼も立ち上がる。
「もう少しだけ、話せない?」
断りたかった。でも、部屋に戻っても家族と顔を合わせるだけだ。
だったら…と、私は歩き出した。
彼は、裏庭に続く小道を案内してくれた。
誰もいない離れの先、小さな東屋があり、そこに腰を下ろす。
「ここね、星がよく見えるんだよ」
そう言って空を見上げた彼の横顔は、どこか少年のようだった。
私は足を組み直した。
そのときだった。
浴衣の裾が、意図せず大胆に開いた。
彼の視線がぴたりと止まり、そこに張り付くのを感じた。
──まるで、私の内腿を撫でているみたいに。
心臓が跳ねた。
なのに私は、組んだ足を、わざとゆっくりと動かした。
ゆっくり、丁寧に。
まるで見せつけるように。
彼の息が止まったのが、わかった。
「……ねえ。そんなに、見えてる?」
声に出してしまった私自身が、驚いた。
けれどその瞬間、背中をゾクリと駆け抜けた感覚に、全身が震えた。
彼は慌てて目をそらした。
けれど次の瞬間には、浴衣の襟元に手を伸ばし、そっと私の肩に触れた。
「……ダメだって、分かってるけど」
「だったら、やめます?」
挑発的に見つめると、彼の手が止まる。
けれど、私の目を見てすぐにまた動き出した。
私は彼に、自分を“見せて”いた。
見られて、反応されて、それを支配する快感があった。
私はそれを知ってしまった。
見せることで彼を試し、そして自分の中の“女”を確認していた。
──私は、欲望の主導権を持っている。
「…お願いだから、もう少しだけ」
彼の声が震えていた。
私はゆっくりと襟を外し、肩を落とした。
風が肌を撫でる。
月明かりの中、私は浴衣の隙間から、彼の視線を誘い込んでいた。
「ねえ……触れてみたいの?」
囁くと、彼の指が私の鎖骨に触れた。
熱い。
けれど、それ以上に私の心の奥が熱くなっていた。
私はその夜、ただ誰かと身体を交わしたわけではなかった。
誰かに見られて、興奮し、自分を曝け出すことで、
初めて“自分の欲望”のかたちを知った。
身体を委ねることで、
むしろ私は、誰よりも強くなれた気がした。
それは、支配ではなく解放。従属ではなく、選び取った欲望だった。
そしてそれが、“女”としての覚醒だった。
――私がほどけたのは、ただ触れられたからじゃない。
“見られて”、そして“見せた”ことで、心の奥の扉が、音もなく開いた。
夜は深く、静かに呼吸していた。
山の向こうから吹き降ろす風が、古い木造の旅館をやさしく揺らし、
私は、彼の隣に裸に近い姿で横たわっていた。
浴衣は乱れ、肩から滑り落ちている。
彼の手が、私の髪をそっと撫でていた。
その所作は不器用なのに、どこか慈しみに満ちていて、
私はもう一度、彼に触れたくなった。
「……ねえ、続き……してもいいよ」
小さく囁いた私の声は、
まるで遠くから聞こえてくる誰かの声のようだった。
彼は答えなかった。
けれど、目を伏せてゆっくりと身をかがめると、
私の胸元に唇を寄せ、そっと触れた。
舌が、肌の表面をなぞるたびに、
“自分がひとつの存在として愛されている”という感覚が、じわりと満ちていく。
乳房の先端に触れたとき、
私はほんの少し背を浮かせた。
冷えた夜気と、唇の温かさのコントラストが、
感覚をより鮮やかに際立たせる。
それは、“触れられる”というより、
私という存在を“味わわれている”感覚だった。
私の身体は、もう問いかけを待っていなかった。
次に何が来るかを察知し、それを望み、迎える準備ができていた。
唇がゆっくりと腹部へと滑り降りていく。
骨の鋭さと皮膚のやわらかさが交差する場所を、
彼の口づけは慈しむように通り過ぎていく。
喉の奥で、抑えた吐息が震えた。
気づかぬうちに、脚がわずかに開いていた。
太ももに触れる指が、熱を孕んでいた。
浴衣の裾を、そっと持ち上げられた瞬間。
私はすでに、許していた。
というより、すでに求めていたのだと思う。
「……いいの」
目を閉じたまま呟くと、彼の吐息が脚の奥に触れた。
唇が、火照った肌に沈んでいく。
その感触があまりにも繊細で、逆に生々しかった。
腰がふわりと浮く。
舌が、私の秘めた場所に触れたとき、
身体の奥に積もっていた熱が、いっせいに広がっていった。
ゆっくり、そして深く。
何かを溶かすように、彼は私の奥を探っていく。
激しさではない。
それは、ひたすらに“私を知ろうとする”行為だった。
指ではなく、舌。
視線ではなく、感覚だけが響く世界。
私は音のない絶頂へと、ゆっくりと引き上げられていった。
舌が深く潜るたびに、私は知らなかった自分と出会った。
“女であること”の重さと悦び、恥じらいと誇り。
そのすべてが混ざり合いながら、私という輪郭をかたどっていく。
胸の奥で、何かがはじけた。
私の身体がわずかに震え、
名前を呼びかけそうになって、唇を噛んだ。
それは“誰かに与えられた快楽”ではなかった。
“自分で選び取った悦び”だった。
快感の余韻が、ゆっくりと身体に沈んでいく。
私は彼に背を向け、何も言わずに布団の中へ戻った。
ただ静かに。
けれど、確かに何かが変わっていた。
女として、見られた夜。
女として、曝け出した夜。
そして女として、“私が私になった”夜。
その夜のことを、
私は誰にも語らない。
でも、この身体は覚えている。
あの舌の感触を。
あの、音のない絶頂を。
――視線に晒され、舌にほどかれた夜。
私は、言葉ではなく、感覚で生まれ変わった。
裸のまま羽織った浴衣は、彼の手や唇の余熱をまだ宿していた。
私は自分でも分かっていた。
このまま布団に戻ったら、眠れない。
それほどまでに、
彼の舌の記憶は、私の身体の奥に深く、濃く残っていた。
誰にも気づかれぬよう、私は静かに廊下を歩いた。
木の床が、かすかに軋む。
目的はただひとつ。
露天風呂。
彼に触れられたすべてを、湯で“洗い流す”ため。
けれどその“つもり”は、すでに違うものへと変わりつつあった。
湯けむりが迎えてくれた。
私は静かに浴衣を脱ぎ、素肌のまま、ぬるりと湯へ身を沈めた。
その瞬間、
背中を撫でた湯の温度が、彼の手の温もりと重なった。
胸をかばうように腕を組みながら、私は目を閉じる。
思い出そうとしたわけじゃなかった。
でも、思い出してしまった。
彼の唇が這った鎖骨、
舌が沈んだ奥の熱、
そして自分の中に生まれた、あのどうしようもない悦びの形。
湯を手にすくい、胸にかけた。
そのとき、かすかに胸の奥がざわめいた。
私は湯の中で脚を組み替えた。
水音ひとつないその仕草に、自分の身体が敏感に反応しているのが分かる。
胸元を、鎖骨を、ゆっくりと指先でなぞる。
湯で洗うはずだったのに、
触れた瞬間、その場所にまた熱が宿る。
身体は、覚えている。
どこをどう触れられ、どこで息を止めたのか。
すべて、皮膚の奥が、舌先のように思い出してしまっている。
下腹部に手を滑らせたとき、
全身がわずかに跳ねた。
思わず、吐息が漏れる。
「……こんなにも…」
呟いた声は、自分のものとは思えなかった。
指先が触れた中心は、すでに湿っていた。
湯に濡れているはずなのに、それとは明らかに違う“滲み”。
誰もいない。
でも、誰かに見られているような気がした。
それは彼かもしれないし、
もうひとりの“女になった自分”かもしれなかった。
指を少し強く押し当てると、身体の奥がわずかに脈打った。
ゆっくり、湯の抵抗を感じながら、円を描くように撫でていく。
その動きは、彼の舌の軌跡とぴたりと重なっていた。
快感は、じわじわと、けれど確実に深まっていった。
ひとりであることが、今はむしろ都合よかった。
誰のためでもない。
ただ自分の内側に、もう一度触れたかった。
息が詰まりそうになる。
肩が震える。
湯の中で、身体の奥が締まる。
もう、戻れない。
私は知ってしまった。
快楽のかたちも、欲望の所在も、
女としての輪郭も。
やがて、湯のなかで、私は静かに果てた。
声を出さずに、けれど確かに全身で感じきったその瞬間。
露天の空には、雲の隙間からほんの一筋、月の光が差していた。
湯に浮かぶ自分の肩を見つめながら、私は心の奥でひとつの言葉を繰り返していた。
「ありがとう」
彼に対してだったのか、
それとも、“女として目覚めた自分”に向けてだったのか。
けれど確かに、その言葉だけは胸に残った。
浴衣をまとって振り返ったとき、
湯けむりのなかで、私は確かに“違う自分”になっていた。
目に映るすべてが、
あの夜の前とは、ほんの少し違って見えた。
そして、
その違いこそが、私の“秘密”だった。
――私は湯で洗い流すつもりで、
もう一度、女になりに来たのだ。


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