夫を見送った朝の玄関には、かすかにシャンプーの残り香と、温かなコーヒーの余韻が漂っていた。
「いってらっしゃい」
ドアが閉まる最後の瞬間、夫の背中にそう声をかけると、彼はいつものように小さく手を振った。
私たちは、きっと誰が見ても“うまくいっている夫婦”だと思う。
週に数回はベッドをともにし、休日には少し高いワインを開け、子どもの話題を肴に静かに笑い合う。
けれど、その静けさの裏で、私は何かが少しずつ崩れていく音を聞いていた。
──女としての「私」は、どこへ消えたのだろう。
夫に抱かれているとき、愛されていることには何の疑いもなかった。
それでも、ふとした瞬間、夫の手が私の肌に触れたときに湧き上がるあの感情。
「そこじゃないのに」
「もっと深く見てほしいのに」
そんな、わがままで、言葉にすればすぐに消えてしまいそうな願いが、私の中で熱を持ち始めていた。
春先から通い始めたテニスサークル。
最初はただ、身体を動かすことが目的だった。
気を抜けばたるんでいくウエストラインと、歳相応に保っているつもりの肌の張りを、もう少しでも長く維持するためのもの。
でも、そこに彼がいた。
陽大──
26歳、独身。日焼けした肌に、鋭い目。
そのくせ、笑うと目尻がすっと下がり、どこか少年の面影を残している。
初めての練習でペアを組んだとき、彼は私のラケットの握り方を後ろから直してくれた。
そのとき、彼の指が私の指に重なった一瞬、私はほんの少し、呼吸を止めた。
「肩の力、抜いてください」
耳元で囁かれたその声が、思いのほか低くて、胸の奥がざわついた。
「香織さん、フォームが綺麗すぎるんですよ」
「……それって、褒めてないでしょ?」
「いや、なんというか……色っぽくて、見とれるって意味です」
彼の冗談に笑って受け流しながらも、私は気づいていた。
彼の視線が、私の胸元に、一瞬だけ触れたこと。
そして、その視線に、私自身が身体の内側から反応していることに。
私の中に眠っていた“女”が、ゆっくりと目を覚まし始めていた。
ある日の練習後、陽大が声をかけてきた。
「ちょっと休憩していきませんか?」
誘われるままについて行ったのは、コート近くのレンタルスペース。
彼が“秘密の部屋”と呼ぶそこは、簡素ながらも整った内装で、外の世界とは異なる空気を持っていた。
「ここ、音も漏れないし、落ち着けるんです」
「よく使うの?」
「信頼できる人としか来ません」
その言葉の裏に含まれる意味を、私は理解しながらも、無言で頷いた。
何かが始まる。
そう直感していた。
彼が部屋の鍵を閉めたとき、私の鼓動はもう、自分ではどうにもできないほど高鳴っていた。
「大丈夫、香織さんを怖がらせたりしない。でも……今日だけは、僕にすべて委ねてくれませんか」
委ねる、という言葉。
その響きに、私は無防備なほどに惹かれていた。
ソファに座らされ、彼の指が私の足元からスカートを捲り上げる。
レースのショーツが露わになると、彼は唇の端を静かに緩めた。
「下、もう濡れてますよ」
指先が、クロッチを押し上げるように撫でた瞬間、私は肩を震わせた。
それは、恥ではなかった。
──ようやく“私”を感じられたという、安堵だった。
「今日は、僕ひとりじゃないんです」
彼がそう言ったあと、扉の向こうから足音が聞こえた。
中に入ってきたのは、ふたりの男性。
彼らは陽大より少し年上で、どこか知的で、落ち着いた雰囲気を纏っていた。
私の脚が震えた。
でも、逃げたいとは思わなかった。
身体の奥底で、ずっと眠っていた何かが、彼らの視線に刺激されて溢れ出そうとしていた。
「目隠しをしてもいいですか」
陽大が私の顔を見つめながら、静かに言った。
私はただ小さくうなずいた。
拒む理由など、もうどこにもなかった。
それよりも、自分の“女の奥”に触れてほしいという願いのほうが強くなっていた。
アイマスクの黒い布が視界を覆うと、世界のすべてが音と感触だけになった。
──その瞬間、私の身体は、まるで皮膚全体で呼吸を始めたようだった。
スカートを捲られ、ショーツをずらされる。
クロッチの部分に指が触れたかと思うと、やわらかい感触が、そこにゆっくりと押し当てられる。
ローターだった。
小さく、静かに震える球体が、私の敏感な突起をやさしく愛撫する。
「こんなに、最初から濡れてるなんて……香織さん、やっぱりすごく綺麗だ」
誰の声かも、わからなかった。
でも、言葉の端に漂う“征服”と“慈しみ”の混合が、
私をひどく安心させた。
指先が、ゆっくりと陰部を開くようにしてなぞる。
その指に導かれるように、私の奥から蜜があふれていく。
同時に、もうひとつの刺激──
肛門のまわりに、ひんやりとしたジェルが塗られていく感触。
誰かがそこに、小さなプラグを押し込もうとしている。
「初めてですか?」
問いかけと同時に、私の喉から短い息が洩れる。
「……ええ、でも……お願い……」
羞恥心も、倫理も、すでに身体の疼きにかき消されていた。
すべてを委ねて、ただ、女として悦びたかった。
ローターが震え、プラグが押し込まれ、
その感触に慣れる間もなく、陽大の指が私の奥へと入ってくる。
「トロトロですね。全部、見られてますよ」
言葉の責めに、身体が震える。
なのに、奥からどんどん溢れてくる蜜が、それにすべて応えていた。
「バイブ、挿れてもいいですか?」
声が落ちてくるように響く。
私は、もう返事ではなく、腰の動きで“許可”を与えていた。
次の瞬間、ゆっくりと太く、しなるような感触が私の中を押し広げていった。
ぬめりと熱を纏ったバイブが、奥へ、奥へと進んでいく。
「奥まで届いたね」
誰かの指が、私の下腹を押して、その感覚を際立たせる。
バイブの電源が入れられると、
まるで脈打つような、一定ではない振動が膣壁を刺激する。
さらに、ローターが突起に吸い付き、
アナルには小さなプラグがぴたりと填まり続けている。
「こんなに、欲しがってるんだ。すごい……」
複数の手、声、音、体温、香り──
私は今、ひとりの“女”として解体され、再構築されていく最中だった。
何度も、絶頂の波が押し寄せる。
そのたびに全身が痙攣し、汗が背中をつたい、
声が喉の奥からこぼれ出る。
でも、彼らは止めない。
「まだイかせてあげる」
「何度でも、何度でも、壊れるまで」
息も絶え絶えになった頃、アイマスクが外される。
ぼやけた視界の中で、陽大が私の髪をやさしく撫でた。
「香織さん……綺麗でした」
「これが、あなたなんです。本当のあなた」
彼のその言葉に、私は泣いていた。
罪悪感ではない。
悦びと、ようやく“本当の自分”に触れられたという安堵が、涙を連れてきたのだった。
私は、香織。
妻であり、母であり──そして、快楽に目覚めた“女”。
今日も家に帰れば、夫がいる。
優しくて、私を大事にしてくれる、穏やかな夫。
でも、あの部屋で私は、
「見られ、責められ、貫かれることでしか感じられない身体」になった。
そして──それを、望んでいた。


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