土曜の午後、あの静けさが恋しくて、私はまた足を運んでいた。 誰にも干渉されない、あのサロン。 白いレースのカーテンが揺れる窓辺。ほんのり甘くて清潔な香り。 施術台に身を預けるだけで、自分の輪郭がほどけていく気がする。
けれどその日は、少しだけ違った。
「今日はね、アシスタントの子がお休みで、私ひとりなの」
先生はいつものように穏やかな笑顔だったけれど、どこか少しだけ、含みのあるような目をしていた。 私はいつものように、オイルマッサージをお願いし、着替えてベッドへ。 下着は用意された紙ショーツ一枚。 静かに横たわると、先生の指が背中に触れ、すべてが日常のリズムへ戻った――そう、思っていた。
「もう少しで、次のお客様が来るわ。…男性のね」
その声に、私は少しだけ眉を上げる。 男性? ここは女性専用じゃ… そう思った私の顔を見て、先生は笑う。
「紹介制。ね、ユミさんは特別だから…見てみる?」
その言葉は、まるで悪戯の誘いのようだった。
「白衣、貸してあげる。顔にはタオルをかけるから、バレない」
ほんの出来心だった。 私の中の小さな背徳心が、先生のその一言に頷いた。
シャワーを浴び、着替えを済ませると、先生が用意してくれていた真っ白な白衣を羽織った。 まるで舞台に立つ前のような、見知らぬ役を与えられた気分。 心臓が、ひとつ、余計に鼓動を打つ。
先生の合図で、私は施術室の隅に立った。 そこにいたのは、三十代半ばくらいの、少し恰幅の良い男性。 紙ショーツ一枚でベッドに仰向けになり、顔には白いタオル。 呼吸は深く、体はすでにどこか火照って見えた。
「ごめんなさい、少しショーツをずらしますね」
先生は、ごく自然な所作で彼のショーツを膝まで下げた。 その瞬間、男の身体の中心が勢いよく現れた。 まるで、何かを訴えるように、上へと反り返っていた。
私は、息を止めた。 何もしていないのに、そこにある生々しい存在感に、身体の奥がざわつく。 羞恥とも違う。恐れでもない。ただ、見ているだけなのに――熱を帯びていく。
先生の指先が、太ももから鼠径部へと滑る。 彼の下腹部、付け根の際、皮膚の一番やわらかい部分を、丁寧に塗り広げる。 オイルがきらめき、男のそれは時折、ぴくりと震える。
私の視線は、もうそこから離れなかった。
「ユミさん、ショーツ、お願いできる?」
先生の声に、私は小さく頷き、手を伸ばす。 震える指先で、彼の腰に触れた。 そのとき、手のひらを通して伝わった熱が、私の胸を一気に焼いた。
彼のそれは、異様なほどに張り詰めていた。 指先がほんの少し触れただけで、ぴくりと跳ねる。 紙ショーツの中に収めようとしたその瞬間―― 彼の腰が、わずかに震えた。
びくん、と大きく。
私は、見てしまった。 何もしていないのに、彼の先端から、熱いしずくが零れ落ちるのを。 彼の体が、小さく波打ち、声もなく達していた。
「……っ」
声にならない声が、喉で溶けた。 彼の体はわずかに痙攣し、白いタオルの下で、無言の絶頂を迎えていた。
私は、固まった。 何もしていない。けれど、その場にいた。 あの瞬間の一部になったという事実が、身体を内側から震わせていた。
「ちょっと他の部屋、見てくるわね」
そう言って先生が施術室を出ていく。 扉の閉まる音が、やけに静かに響いた。 私は、ベッドの脇にひとり取り残された。
タオル越しに見える男性の顔の輪郭。肩の上下。わずかに漏れる吐息。
彼のそれは、まだ昂ぶったままだった。 むしろ、さらに熱を持って、空気に晒されていた。
私は、そっとタオルを取り、彼の脇に置いた。
ふと、彼の腰がわずかに揺れる。 見えていないはずの目が、私の手元を探っているような錯覚。
――私は、試されている?
「……お辛いですか」 自分でも驚くほど、声が震えていた。
私は、そっと指先を添えた。 触れたわけではない。ただ、寄せただけ。 それだけで、彼の体が大きく跳ねた。
熱が、鼓動が、震えが。 すべてが手のひらに伝わってきて、私の中の境界線が崩れていく。
「助けてあげたいだけ……」
私は、指をすべらせた。 たった数秒。ほんのわずか。
けれどその瞬間―― 彼の体が強く跳ね、目を覆っていたタオルの奥から、短く、苦しげな吐息が漏れた。
止まらなかった。 私の手の中で、彼はふたたび高まり、やがて痙攣するように、すべてを零した。
静寂の中で、その熱だけが生々しく、私の手の中に残った。
「どうだった?」
先生が戻り、そっと聞いてくる。 私は、自分の声が震えているのを感じながら、答えた。
「……何かを越えてしまった気がします」
先生はふっと笑った。 「でも、それがあなたの“指”なのよ」
帰り道、風がやけに肌を撫でていく。下着越しに感じる空気が、妙に敏感で、いやらしい。 手のひらに残る感覚は、今でもまだ、熱いままだった。
私は、そのまま家には帰れなかった。 心が揺れすぎて、足がどこに向かっているのかも曖昧なまま、デパートの中をさまよっていた。
香水のコーナー、婦人服売り場、人混みの中。 なのに、私の耳には、あのときの吐息が繰り返し響いていた。
脈が早い。 歩くだけで、内腿が擦れて、そこに意識が向かってしまう。
ふと、私は人目を避けるようにして、トイレの個室へと駆け込んでいた。
背中を壁につけ、深呼吸を繰り返す。 なのに、あの感触が指先に蘇る。
熱。張りつめた鼓動。指先を濡らした雫。
「私、どうしちゃったんだろう…」
呟いてみても、収まるはずもない。 スカートの内側が、わずかにまとわりつく。 そこは、もうずっと前から熱を帯び、湿っていた。
ひとりきりの密室。 何もしていないのに、いや、何もしなかったからこそ―― この疼きが、どうしようもなく愛おしかった。
私は、唇を噛み、ただ目を閉じた。 そして、手のひらに残った記憶を、もう一度だけ、心の中でなぞった。


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