第一章:雨音の奥にいた“彼”と、私のまどろみ
夫が札幌を離れ、関西へ単身赴任してから半年。
二十八歳、結婚五年目の私は、息子と二人きりで暮らすこの小さな家に、しんとした湿度と静けさを飼っていた。
最初の一ヶ月は、寂しさよりも「平穏」に包まれていた気がする。
夫の足音がない夜。食卓に並ぶのは、息子の好きなカレーと、私ひとり分のワイン。
湯上がりに着る柔らかな部屋着、胸元をゆるく開けて過ごす夜の自由。
――でも、それもただの“枠”だった。
そのうち、誰にも触れられない皮膚の感覚が、じわじわと内側から乾いていくのがわかった。
パート先のドラッグストアは、自宅から徒歩八分。
時間帯は昼の短時間勤務、週三日の小さな逃避場所だった。
年配のパート仲間たちに混ざってレジに立つ私は、まるで「女」をどこかに預けてしまったような気持ちでいた。
そんな日々の中に、彼はふいに現れた。
直哉くん――二十歳の大学生。北海学園の法学部。
初めて目が合った瞬間、何かが胸の奥で「跳ねた」のを、私は忘れられない。
制服のシャツから覗く鎖骨。少し長めの黒髪と、涼しげで、それでいて芯に熱を秘めたような瞳。
視線が交差したとき、彼の瞳の奥に、どこか“見透かされたような”甘い鈍痛が走った。
「おはようございます、〇〇さん。なんか…その服、すごく似合ってます」
そう言って微笑んだ彼の声は、落ち着いていて、大人びていて、
でもどこか舌先に甘えが残るような、年下男子特有の危うさを含んでいた。
心の奥で、微かな音が鳴った。
鍵をかけていた感覚が、小さく軋む音とともにほどけていく。
その日から、私はほんの些細なことで――
彼の前髪の乱れ、声のトーン、ペンを握る指の節にさえ、心が濡れるのを止められなくなっていった。
気づけば、パートの日は鏡の前に長く立つようになっていた。
ベージュのリップを、すこしだけ深い赤に変えてみる。
胸元のシャツを一つだけ開けてみる。
自分でも気づかぬうちに、私は誰かに“見られる”ことを欲していた。
その午後――
小雨の降る日、湿った風が頬にまとわりつく帰り道。
彼はぽつりと、私の隣を歩きながら訊いた。
「…今日、少しだけ時間って、ありますか?」
私の心の中で、堰き止めていた水が、ひとつ崩れる音がした。
「…ええ、まだ保育園、迎えまで時間あるから…」
それは、ただの返事ではなかった。
私はすでに知っていた。
この先にあるものが、“望んでいた”ことであると。
第二章:服を脱ぐ音が、罪悪感をやさしく壊した
「おじゃまします…」
直哉くんの靴音が、玄関の木の床に優しく響いた。
リビングのカーテンは半分だけ閉められ、窓の外には、しとしとと雨が降っていた。湿った空気に満ちた室内は、どこか色気を孕んだ静けさで、彼の存在をひときわ際立たせていた。
私の手は、無意識に紅茶のカップを揺らしていた。震えていたのは、指先か、それとも心の奥か。
どちらかわからないまま、ソファの向こうで彼と目が合った。
「…やっぱり、すごく綺麗です、〇〇さん」
たったそれだけの言葉に、全身の神経がきゅっと収縮する。
私のなかにある“女”の部分が、息を吹き返したようにざわめき出す。
「ダメよ、そういうこと…言っちゃ」
声には叱るような響きを含めたつもりだった。でも、その言葉とは裏腹に、胸の奥がじんわりと熱くなっていくのを私は感じていた。
タブーという名の薄氷を、ゆっくりと足先で踏み砕くような感覚。
直哉くんがゆっくり立ち上がり、私の隣に座った瞬間、呼吸が止まった。
彼の指が、そっと私の髪を耳にかける。
柔らかなその動きは、私が夫にすら触れられなくなっていた感覚を、じわりと溶かしてゆく。
「触れてもいいですか」
そう囁かれたとき、私はもう、頷く以外の選択肢を持っていなかった。
ブラウスの第一ボタンを、彼の指が静かに外す。
“カチリ”という小さな音が、心の奥まで届いた。
ボタンが一つ外れるたびに、私の理性が一枚ずつ剥がれていく。
彼の唇が、肩にそっと落ちたとき、息がこぼれた。
熱くて、湿った吐息。それが私の鎖骨に触れた瞬間、目の奥がじんわりと潤む。
「〇〇さん、肌…すごく柔らかい」
その言葉に、胸がきゅっと疼いた。
彼の掌が、ゆっくりと背中に回り、ブラのホックを外す。
カップから解放された胸に、空気の冷たさと、彼の体温が交互に触れる。
ひとつ、指先で円を描くように撫でられた瞬間、
乳首が音もなく硬くなった。
私は、どこか遠くを見つめながら、喘ぐのを必死で堪えていた。
でも、ソファの下に沈み込んだ彼の顔が、私の柔らかいところへと近づいていくたび、
息を殺すのが難しくなっていく。
スカートの中、下着の上から、舌先で優しく押し当てられる感覚。
わずかな布越しでも、彼の熱は確かに私を貫いてきた。
「や…そこ…」
声が漏れた。
頭の中が真っ白になりそうなほど、何度も焦らされ、
下着を濡らしていく感覚に、全身が震え始める。
やがて、彼の指が下着の中へと滑り込み、そっと秘めた場所をなぞった瞬間、
私は身体を反らせて、彼にすがるように腕を伸ばした。
それは快楽というより、“許されたい”という願いに近かった。
彼の手が、私の奥にふれた。
くちゅりと湿った音が、静かな部屋に響く。
私は、その音にさえ、恥ずかしさよりも安堵を覚えていた。
衣服が、二人の間から一枚ずつ消えていく。
皮膚と皮膚が、もう誤魔化しようのないほどに近づいて、
彼の熱が、私の脚の間で張り詰めていた。
ゆっくりと、押し当てられ、
次の瞬間、彼が私の中に入り込んでくる。
思わず声が漏れる。
「……あっ」
背徳と悦楽。
心と身体の狭間で、私は何度も、自分を見失った。
彼の律動に合わせ、ソファの革がわずかに軋む。
私の膝が震え、指がシーツを掴み、
ひとつになるたび、私の中にあった何かが崩れていく。
けれど、それは決して“壊れる”感覚ではなく――
“戻れなくなる”悦びだった。
第三章:交わったあと、女は沈黙を孕む
雨は、まだ降っていた。
窓の外に打ちつけるその音が、私たちの呼吸をやさしく包み隠してくれていた。
けれど、終わったあとの沈黙は、それとは違う種類の“音のなさ”だった。
直哉くんは、黙ったまま私の髪を撫でていた。
胸元に顔を埋めるその仕草は、どこか無垢で、無防備で、まるで私の奥の奥まで触れてくるようだった。
「…すみません、いろいろ、抑えられなくて」
そう呟いた彼の声が、胸の谷間で震えた。
私は何も返さなかった。
返せなかった。
声を出せば、何かが壊れてしまう気がして。
脚のあいだから伝う、温もりの余韻。
ひりついた肌の奥に残る、彼の名残。
それらが、私に現実を突きつける。
夫の笑顔。
息子の寝顔。
家庭という名の“秩序”が、部屋の隅で静かに立っていた。
でも今、このソファの上だけは、
その秩序から私を解き放ってくれる場所だった。
ゆっくりと身体を起こし、シャツを手に取る。
彼が私の肩をそっと掴んだ。
「〇〇さん…また、会ってもいいですか」
その言葉は、求めるでも、縋るでもない。
ただ、真っ直ぐで、あまりにも純粋で――だからこそ、私はまた沈黙した。
視線を逸らして、鏡に映る自分を見た。
濡れた髪。少し腫れた唇。
快楽のあとに浮かぶ、自分でも知らない“女の顔”。
私はこんな表情を、夫にも、誰にも見せたことがなかった。
「…ねえ、直哉くん」
彼が小さくうなずく。
「私、どう見えてる?」
少し間をおいて、彼は答えた。
「強い人。でも、すごく…寂しそうです」
その言葉に、胸の奥で何かがふっとほどけた。
心の一部が、彼の中に落ちていく音がした。
罪悪感は、確かにあった。
けれど、その何倍も大きな“赦し”を、私は自分自身に与えようとしていた。
肌が触れ合ったあの時間は、私の中の“喪失”を埋めるものではなかった。
むしろ、空虚を可視化してくれる鏡のようだった。
私は何に飢えていたのか。
何を失い、何に渇き、何に惹かれたのか。
それを教えてくれたのが――
彼の若さではなく、彼のまなざしだった。
リビングの時計が、午後四時半を告げた。
息子を迎えに行く時間。
「またね」とは言わず、私は微笑んで立ち上がった。
直哉くんは、黙ってうなずいた。
その姿が、どこか、遠い夢のように見えた。
玄関の扉を開けると、雨はもう止んでいた。
アスファルトが濡れたまま、静かに光を反射している。
私は傘を持たず、濡れた空気のなかを歩き出した。
頬に残る彼の手の熱を、
脚に絡まる彼の名残を、
まだ消せないままに。
でも、歩ける。
私はまた、女として、生き直せる。
そう思った。


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