夫の部下であり、私の同級生――嫌悪と欲望の間で
結婚して七年が過ぎた。
夫・慎一とは、どちらかといえば穏やかな関係だった。八歳年上の彼は、真面目で誠実で、仕事熱心で。私はそんな人となら、落ち着いた人生が送れると思った。実際、日々に大きな不満はない。
けれど最近、ふとした拍子に「私は女として、まだ何かを失ってはいないか」と思う瞬間がある。
それが何なのか、はっきりとはわからない。
けれど、その輪郭をまざまざと見せつけられたのは──
「ご無沙汰。まさか、また会うとは思わなかったよ」
会社の歓送迎会。夫の隣に立って笑っていたその男は、大学時代の同級生だった。磯部悠人。
彼を、私は嫌っていた。学生時代から人たらしで、軽くて、どこか他人を試すような態度。真面目に見えて、裏ではずる賢い。そう思っていた。
「悠人、君ら同じゼミだったんだって?不思議な縁だよなぁ」
夫が無邪気に笑う。その言葉の横で、彼──悠人は視線だけで、私を値踏みするように見た。
目が合った瞬間、息が止まった。
「ご主人には内緒にしておくよ。“昔、俺に冷たかった女”だってね」
その声の温度の低さに、心がかき乱される。
嫌悪。蔑み。屈辱。そして――胸の奥をかき回されるような、じっとりとした“疼き”。
会いたくなかった。
関わりたくなかった。
けれど彼は、夫の部下という立場で、私の生活に頻繁に現れるようになった。
夕飯の準備中、夫と電話で話す悠人の声が、リビングから漏れ聞こえる。
週末の社内イベントでは、車で私たちを送ってくれた。後部座席で何気なく交わした視線。その一瞬だけで、私は胸を強く締めつけられた。
そして決定的だったのは──
「慎一さん、今日家に忘れた書類、届けに行っていいですか?」
とある平日、夫の不在時に届いた一本のメッセージ。
「大丈夫よ、近くまで来てるの?」
「ええ、今から向かいます」
ドアを開けたとき、私は言い知れない緊張を覚えていた。
きっと、すでにわかっていたのだと思う。この男と、これ以上近づいてはいけないと。
「久しぶりに二人きりだね」
玄関に立った悠人は、昔と同じ笑みを浮かべながらも、その目だけは笑っていなかった。
「上がっていい?」
断るべきだった。でも、喉がつかえたように声が出なかった。
居間に通した瞬間から、空気が変わった。
「慎一さん、ほんとに何も気づいてないんだな。君のこと、全部信じてるみたいだ」
「……何が言いたいの?」
「君が、俺を見てる目。あれ、なんなんだろうなって思って」
「……別に。嫌いなだけよ」
私がそう言った瞬間、悠人の表情が一瞬だけ崩れた。
そして彼は、私の前に立ち、急にその顔を近づけた。
「……なら、試そうか」
そう囁いたかと思うと、腰を引き寄せられて、唇が塞がれた。
拒もうとしたのに、息が止まるほど深く、舌が私の口内を探る。
「やめ……っ、なさい……!」
もつれる呼吸の中で、私は抵抗した。けれど彼の腕はしっかりと私の背中を捉えていた。
そのままソファに押し倒され、上から覆いかぶさるように、彼はじっと私を見下ろした。
「お前、昔から意地張るよな。感じてるくせに、認めようとしない」
「……感じてなんか……ない……!」
声が震えていた。身体は、もっと正直だった。
彼の指先が、シャツの隙間から忍び込んでくる。その熱を、私は忘れてしまっていた。
誰かにこんなふうに触れられる感覚を。
「やだっ……悠人、やめてよ……っ!」
「やめて欲しいなら、もう少し真剣に拒めよ」
それは、挑発とも、哀しみともとれる声音だった。
私の下着の中へ、悠人の指が滑り込む。
その瞬間、息が漏れた。悲鳴でも、喘ぎでもない。無意識の、快楽の反応。
「こんなに濡れてるのに?」
「っ……違う、そんなわけ……」
「じゃあ、なんで震えてる?」
彼の舌が、私の胸元に這う。ブラジャー越しに乳首を吸われ、私は震えた。
まるで、嫌悪の下に積み重ねた感情が剥がれ落ちていくみたいだった。
スカートを捲られ、ショーツをずらされ、舌が私の奥へと触れたとき、私の理性は完全に崩れた。
「や、だ……やめて、こんな……っ、ああっ……!」
敏感な粒を執拗に責められ、膝が震えた。
何度も絶頂に達し、汗ばんだ身体で私は息を吐く。
「……どうして……こんなこと……」
「本当はずっと、こうしたかった。お前もそうだろ?」
悠人が私の瞳を覗き込む。
私は、なにも言えなかった。ただ、涙を浮かべて俯いた。
身体は嘘をつけない。
嫌いだったはずのこの男に、私は……堕ちた。
裏切りと快楽、そして初めての愛の名を知った夜
翌朝、目覚めたとき、私は彼の腕の中にいた。
窓の外はすでに明るく、時計の針は非情にも、日常への帰還を告げていた。
「起きた?」
耳元で囁かれるその声に、私は心を締めつけられた。
背中に彼の体温を感じたまま、私は黙って頷いた。
何かを口にしてしまったら、現実が壊れてしまいそうで、言葉にするのが怖かった。
悠人とは、あれから何度も関係を重ねた。
「今日、慎一さんは出張ですよね」
「奥さん、今日も綺麗ですね。……俺のために着てきたんですか?」
職場での、意味深なやりとり。
夫のいない日中、訪れる彼の影。
そして、誰もいない昼のベッドで、何度も求め合う私たち。
最初は、“身体だけ”だと思っていた。
この快楽が、愛とは違うと自分に言い聞かせていた。
でも違った。
彼が私の首に口づけるとき、胸を舌で転がすとき、私の脚の奥を熱く濡らしていくとき──
私の心は、確かに揺れていた。
「また来たの?」
「来るなって言いました?」
そう言って笑う彼に、私はどうしても逆らえなかった。
夫には決して見せたことのない顔で、私は彼に抱かれていた。
激しく、深く、何もかも忘れるように。
背後から貫かれ、鏡越しに見せつけられる自分の表情。乱れた髪、唇、潤んだ瞳。
そこに映っていたのは、もう“妻”でも“母”でもなく、“ただの女”だった。
「好きだよ」
そう言われたとき、私は何も返せなかった。
でも心のどこかで、確かに、そう思っていた。
「悠人……わたし……どうしたらいいの……」
ベッドの上で、汗ばんだ胸に顔を埋めながら、私は初めて彼の名を呼んだ。
彼は少し驚いたように笑い、私の背を撫でた。
「どうもしなくていい。俺はずっと待ってたんだよ、〇〇が“自分の名前”で呼んでくれるのを」
その言葉に、なぜだか涙が出た。
夫と過ごす穏やかな時間では決して流れなかった、熱くて塩辛い涙だった。
◇◇◇
ある日のこと。
夫と悠人と、私の三人で食事をする機会があった。
「悠人、最近頼りにしてるんだよ。仕事もできるし、君の話もよく聞いてる」
夫が無邪気に笑う。
隣の悠人が、私を一瞬だけ見た。
その視線に、私は息が止まりそうになった。
あの夜、夫が寝静まったあとのリビングで、私は悠人に押し倒されていた。
テレビの光の中で、彼に舌を這わされ、何度も果てていた。
夫の目の前で、その男と、私は沈黙の秘密を共有していた。
「奥さん、今夜、少しだけいいですか」
その夜、また私は呼び出された。
ホテルでもなく、自宅でもなく、街外れの古いマンションの一室。
外から見ると寂れた建物だったけれど、中に入ると、彼が丁寧に用意してくれていたワインとグラスがあった。
「これからも続けるのかどうか、俺たち、ちゃんと決めなきゃいけないと思って」
そう言った彼の瞳は、真剣だった。
そして、私はようやく口にした。
「……わたしね、慎一さんのこと、まだ……好きなの」
その一言で、すべてが終わると思った。
でも、悠人は何も言わずに、グラスを置いて、私をそっと抱きしめた。
「それでいい。俺はそれごと、好きだから」
心が、はじめて完全にほどけた瞬間だった。
そのまま彼に口づけられ、何も考えず、身体を委ねた。
ベッドの上で、私たちは何度も名前を呼び合いながら溶け合った。
「〇〇……感じてるときの顔、ほんとに綺麗」
「……そんなの言わないで……」
「いや、もっと見せて。もっと、乱れてほしい」
脚を開かれ、舌で何度も愛撫され、私は羞恥と快感の狭間で何度も震えた。
胸の尖りを吸われながら、脚の奥に指を滑り込まれる。
そして、熱いものが私の中に満ちていく──
「……欲しい? 俺が、全部、埋めてあげようか?」
「……お願い……」
喘ぎの中で、私は、かつてないほど素直になっていた。
涙と唾液と愛液が混じった夜。
それは、恋とは呼べないほどの、深く重い、堕ちていく感覚だった。
◇◇◇
それから、数日が経った。
夫の背を見つめる私の心は、少しずつ変わっていた。
罪悪感は、確かにある。
けれど、あの男に触れられたときの私は、間違いなく“生きていた”。
もう戻れない。
でも、きっとまだ終わってはいない。
「……好きよ、悠人。……好きになっちゃった」
そう、ようやく言えたとき。
彼は私を何も言わずに抱きしめ、背中を撫でながら、静かに耳元で囁いた。
「俺も。ずっと前から、ずっと」
胸の奥がじんわりと熱くなった。
あれほど嫌っていた男の腕の中で、私はやっと、自分を“愛される女”として思い出した。
そう──
この男だけは、好きになってはいけないと思っていたのに。
でも、いま私は確かに、愛してしまった。
それがどれほど愚かで、許されないことであっても。


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