今日は孕むまでナカに出して… 山口珠理
【第1部】灯の向こうに揺れるもの──触れずに燃える夜
夫が逝って、もう八年になる。
北陸の海は、いつも灰色に近い光を湛えていて、冬はとりわけ静かだ。
あの人がいた頃は、波の音も生活の一部だった。けれど今は、それがやけに遠く聞こえる。
娘の紗英と、その夫の祐介がこの家に住むようになって、ようやく“人の息づかい”が戻った。
夕飯の湯気、風呂場の水音、廊下を渡る足音──すべてが、私の孤独を和らげてくれていた。
けれど、今夜は違う。
台所の電気を消し、湯呑を片づけようとしたとき、二階から微かな音がした。
笑い声のような、ため息のような……。
空気の振動が、壁を伝って私の耳に届く。
知らなければいいのに、と心のどこかが言った。
でも、そのままではいられなかった。
戸棚のガラス越しに、灯りが揺れている。
その光の揺らぎだけで、何が起きているか分かってしまう。
若いふたりの、あの熱。
肌と肌が触れ合う音のような静けさ。
私は息を殺しながら、流しの前に立ち尽くした。
胸の奥で何かが疼く。
もう長いこと、忘れていた感覚。
湯気のように立ち上る記憶。
それは、私自身の身体のどこかにまだ残っていた“女”の部分を、ゆっくりと呼び覚ましていく。
「……まだ、生きているのね、私の中の熱は」
声にならない独り言が、唇の裏で消える。
指先が、勝手に手首の内側を撫でていた。
そこだけが、なぜか冷えない。
静かな夜のはずなのに、世界がかすかに明るい。
娘の部屋の灯りが、廊下を照らしていた。
私は目を閉じ、その光のぬくもりの中で、自分の体温を確かめた。
痛いほど静かで、どうしようもなく懐かしい夜だった。
【第2部】見えない熱──記憶が指先を導く夜
二階の灯りが落ちると、家の中は再び静けさに包まれた。
けれど、その静けさが妙に重い。
私の耳の奥では、まだ“音”が続いている。
さっきまで聞こえていた微かな吐息が、記憶の中でくり返されていた。
湯呑を片づけるふりをして、私はそっと自分の手の甲を見つめた。
皺の一本一本が、まるで何かを覚えているように思えた。
夫がまだ生きていた頃、私の手を包み込んでくれた掌の温度。
あのぬくもりを、私はいつの間に手放してしまったのだろう。
廊下の突き当たりにある姿見の前に立つ。
そこに映る私は、知らない女のようだった。
歳を重ねた肌。けれど、その奥に眠る血潮はまだ乾いていない。
「どうして……」
思わず、口の中でつぶやいた。
どうして、こんなにも心臓が早くなるのか。
ただ娘の笑い声を聞いただけなのに。
どうして、身体の奥が目覚めるように疼くのか。
鏡の中で、私の頬がわずかに紅くなっていく。
自分の唇を見つめていると、そこに“触れられた”記憶がよみがえる。
夫のものではない。
もっとずっと昔、二十代のころ、名前も思い出せない誰かの指が、私の唇をなぞった。
冬の居酒屋の帰り道、夜風の中で交わした短いキス。
あのときの息の熱。
忘れていたはずなのに、今夜、その感触だけが生々しく蘇ってくる。
階下のストーブが止まり、部屋の温度が少しずつ下がっていく。
なのに、私の身体だけが熱を帯びている。
喉の奥が渇くような、呼吸が追いつかないような感覚。
胸の内側で、何かがゆっくりと目を覚ます。
それは理性でも羞恥でもない。
もっと原始的で、言葉にならない衝動。
「……いけないわ、こんなの」
言葉にした瞬間、胸の奥で何かが軋んだ。
けれど、その“いけない”が、逆に甘く響いた。
指先が、鏡に映る自分の頬をなぞる。
熱を帯びた肌が、かすかに震える。
まるで、自分の中にもう一人の女が潜んでいて、その女が囁いているようだった。
──まだ終わっていない。
──まだ、あなたは女のまま。
私はその声を振り払おうとした。
けれど、どうしてもできなかった。
むしろ、その囁きに救われた気さえした。
心の奥底で、眠りかけていた何かが、確かに息をしている。
娘の部屋の灯りが消えた夜に、私はようやく“自分の中の夜”を見つめていた。
【第3部】夜明けの音──女としての呼吸が戻る瞬間
夜がいちばん深く沈むころ、私はまだ眠れずにいた。
布団の中で、手を胸に当てる。
心臓の鼓動が、やけに大きく聞こえる。
そのたびに、身体の奥がわずかに熱を帯びる。
音もなく降る雪のように、静かなのに、確かに何かが燃えている。
目を閉じると、光景が浮かぶ。
二階の灯り、微かな声、揺れる影。
それらはもう“娘たち”のものではなく、いつのまにか私自身の記憶の中の情景に変わっていた。
二十代の私が、誰かに抱き寄せられる。
髪を撫でられ、背中に息を感じる。
そのときの熱、匂い、手の重み。
忘れたくても、身体は覚えていた。
それは懐かしさではなく、痛みでもなく──
ただ、生きているという証のようだった。
「まだ、終わっていないのね……私の中の夜は。」
呟いた声が、暗闇の中で揺れた。
私は布団の端を握りしめながら、もう一度呼吸を整える。
息を吸うたびに、胸の奥で波が広がる。
吐くたびに、皮膚がその波を追いかける。
そんな単純なリズムのなかに、どこか懐かしい快楽が宿っている気がした。
夫を失ってから、私は「もう二度と誰かに触れられることはない」と思っていた。
触れられないなら、触れないままでいい。
そう言い聞かせていた。
けれど──
今、こうして息をしているだけで、
私は“誰かに触れられている”のと同じくらい確かに、生を感じていた。
雪の匂いがした。
外は白んで、夜と朝の境が溶けていく。
私は立ち上がり、窓を少しだけ開けた。
冷たい空気が頬を撫で、胸の熱をやわらげる。
それでも心の奥は、静かに波打っている。
遠くで、除雪車の音がした。
日常が戻ってくる音。
その音に混ざって、私の中の何かがひとつ、ほどけていった。
「ありがとう」と誰にともなく呟く。
誰のためでもない、私自身のための言葉。
失われたと思っていた“女の時間”が、再び動き出す。
それは羞恥ではなく、懺悔でもなく──
ただ、命がまだ灯っているという確かな実感。
雪の光が部屋に差し込むころ、私は静かに微笑んだ。
息が、ゆっくりと、ひとりの女のリズムを取り戻していた。
【まとめ】沈黙のあとに残るもの──女という名の呼吸
この夜を境に、私は変わった。
誰にも触れられなくても、私の中にはまだ熱がある。
それは若さでも欲望でもなく、生きる力のかたち。
忘れていた官能は、決して“誰かのためのもの”ではなかった。
それは、自分自身の中で、静かに燃え続ける灯だった。
年齢を重ね、季節をいくつも越えたあとでようやく気づいた。
愛も欲も、羞恥も、すべては「生きようとする本能」の姿にすぎないのだと。
人は誰でも、触れられない夜を抱えて生きている。
けれど、その夜を見つめる勇気があれば──
もう一度、呼吸の奥から“女の自分”を取り戻すことができる。
静かな雪の朝。
私は湯気の立つ茶をすすりながら、胸の奥の熱を確かめた。
それは、もう二度と消えない“生の灯”だった。




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