【第1部】枕を濡らしたのは、夫の言葉じゃなかった
「お願い、抱かれてきてくれないか?」
最初は冗談だと思った。
まさか、夫の口からそんな言葉が出るとは。
けれど彼は真顔で、どこか試すような目をしていた。
目を逸らすと、窓の外は夏の雨。
音もなく濡れていくガラス越しに、私の心もまた、何かを溶かされていた。
「昔の同級生とかさ、気が楽だろ?」
気が楽、なんて──
けれど頭のどこかで、浮かんだ顔があった。大学時代、私のことを「もったいないよな」と言って笑っていた彼。あの言葉が、なぜか今になって響いていた。
“女として、終わったんじゃないか”
そんな風に思われるのが怖かったのは、夫の前より、鏡の前だった。
*
そして、私は彼に会った。
何年ぶりかの再会は、ただの雑談から始まったけれど、グラスを傾けるうちに、空気が少しずつ、濡れていった。
「……ほんとに来たんだ。俺、誘ったら来ないと思ってた」
その声が喉を滑った瞬間、私は女になった。
夫のためじゃない。
自分が、まだ“誰かの欲望になる”と感じた瞬間に、奥が疼いたのだ。
キスは自然だった。触れられた肩、指先、髪の根元。
そして、ベッドの中で枕を腰の下に敷かれた時──
私はもう、自分のために喘いでいた。
「こんなに濡れてるなんて……旦那さん、羨ましいな」
言葉より、深く刺さる目。
夫には見せたことのない顔で、私は何度も絶頂した。
その夜、帰宅した私を待っていた夫は、
無言で私を押し倒し、荒い息のまま中へと入ってきた。
快楽よりも、支配。
でも、興奮しているのが伝わってくる。
「やっぱ、お前……すげえな……あんな顔してたんだな……」
私は何も言わなかった。
だって、あの夜は私が“女”に戻るための夜だったから。
でもそれが、歪みの始まりだった。
【第2部】「そろそろ、やめないか?」の声が冷たかった夜
「ねえ、そろそろいいだろ? もう……さ」
何が“もう”なのか、わからなかった。
そして私は、まっすぐ目を見て言った。
「何言ってんの?」
私の言葉に夫が怯んだ。
そこにあるのは、怒りじゃない。後悔と、嫉妬と、敗北。
その日から、夫は私に触れなくなった。
出かけることもなくなり、口数も減っていった。
でも私は、止まれなかった。
あの彼と交わるたび、私は“生きてる”と感じてしまっていた。
「不倫だってわかってる。けど……気持ちよくなれるの」
私は、誰に言っているのかわからない呟きを繰り返していた。
でも、子供の目が、どこかで空気の違いを察しているのがわかった。
だからこそ──
「離婚しようか」
その一言に、夫は何も言わなかった。
ただ、静かに、うつむいた。
そして数日後──
彼に、別の女ができたと知った。
なぜか、心が冷えた。
私のしていたことなのに。
でも、それが引き金になった。関係は一気に壊れて、修羅場に。
だけど私は、まだ怒っていた。
「私は何をしていたの?」
ある時ふと、鏡を見つめてつぶやいた。
やっと、わかった。
彼に抱かれていたのは、身体だけじゃなかった。
“女としての自尊心”が欲しかったのだ。
そして私は、別れた。
【第3部】夫の上で感じた“女”という確信と、静かな終止符
彼と別れた夜、ひとりで眠るのが寂しくて、
隣の部屋の夫の布団に入った。
体調を崩してからセックスもしていなかったけど、
もう一度、確かめたかった。
私は、まだ女なのか。
夫の中で、それを感じられるかどうか。
「ねぇ……枕、腰の下に敷いて」
私は、彼にされていたように言った。
身体を反らし、指で──そう、奥を押し上げるように。
何度も何度も、果てるまで。
そして、夫に跨った。
自分の手で、彼の中へ入れて、
言葉のような喘ぎを零す。
「……嗚呼……気持ちいい……イク……イク……」
夫の目が見開かれた。
興奮と、戸惑いと、どこかで受け入れているような諦め。
でも、それでも──
私を抱いてくれた。
「……俺、お前に他の男ができたら、本当にダメになるって思ってた」
私は、ただ、彼の首に顔を埋めて、そっと呟いた。
「私ね、女でいるのが、怖かったんだと思う……でも、あなたの中で感じてる今、すこし安心してる」
家庭は、壊したくなかった。
そして、それを選んだのは、私。
今はたまにセックスをする。
それで、十分だった。
気持ちよくなるためじゃない。
“女としての私”を確認する、静かな儀式。
その夜、濡れた枕を取り替えながら、
私は小さく、微笑んだ。



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