社長の愛人だった私へ──夫の浮気と訃報でほどけた秘密の青春

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【第1部】社長秘書として選ばれた日──二十代の私が捧げた青春と秘密の恋

 私の名前は、森下美咲(もりした・みさき)。
 関西の地方都市に本社を構える老舗メーカーに入社したのは、二十歳になったばかりの春だった。

 新入社員研修を終えて、最初はごく普通の総務課に配属された。電話を取り、書類を回し、コピー機と格闘する毎日。社会人らしいスーツにまだ身体が慣れていなくて、ヒールで足を痛めながら、それでも「ちゃんと働けていること」が少し誇らしかった。

 そんな私の名前が、ある日突然呼ばれる。

「森下さん、新しく就任した取締役の秘書として異動してもらえませんか」

 会議室で告げられたその一言が、私の人生を大きくねじ曲げた。

 新任の取締役・神谷修一(かみや・しゅういち)は、当時四十代半ば。
 よく通る声と、よく動く眉。鋭いのに穏やかな目元。社内では「改革派」「切れ者」と噂されていた。実際、会議室で部長たちに指示を出す姿は、若かった私の目には少し眩しすぎるくらいだった。

「今日から、君が僕の右腕だから」

 最初の挨拶で、神谷さんはそう言って笑った。
 その言葉に、胸の奥がふっと熱くなる。給料が上がるわけではない。でも「選ばれた」という事実が、二十歳の私の自己肯定感を一気に押し上げた。

 朝は、彼よりも早く出社し、机を整え、スケジュールを頭に叩き込む。
 昼は、会議資料を抱えて駆け回り、夜は、彼のメールを整理しながら最終の電話に応じる。怒鳴り声ひとつ上げない人だったが、判断は速く、ミスは許されなかった。

 それでも私は、そこに生きがいを見つけていった。

 ──この人に仕えるために、私はここにいる。

 そんなふうに思い込むようになるまで、時間はかからなかった。

 ある日、出張の同行を命じられた。
 初めての一泊出張。スーツケースを引きながら、新幹線の中で何度も資料を見直す私に、神谷さんは缶コーヒーを差し出した。

「そんなに緊張しなくていいよ。君はよくやってくれてる」

「いえ、まだまだです……」

 照れくさくて、窓の外に視線を逃がした。
 ガラスに映る自分の横顔は、少しだけ大人びて見えた。あの日から、私の「普通の二十代」は、静かに姿を消していったのだと思う。

 出張先での仕事は慌ただしく、それでも段取りはなんとかうまくいった。
 夜、取引先との会食が終わり、ホテルへ戻る。エレベーターの中、少し酔いの回った頭がじんわりと熱い。

「美咲さん、お酒、大丈夫だった?」

「はい……ちょっとふわふわしますけど」

「君は頑張りすぎるから。たまには力を抜かないと」

 エレベーターの数字が一つずつ減っていく。
 その小さな密室で、ふいに世界が狭まり、自分の呼吸がやけに大きく聞こえた。

 ──この日を境に、私は「秘書」であり「愛人」になる。

 それが、自分の一生を形作る「はじまり」になることを、その夜の私はまだ知らなかった。


【第2部】社長の愛人だった私──褒められる仕事と、誰にも言えない夜の顔

 二十代前半の私は、自分で言うのもおこがましいが、それなりにモテた。
 社内の飲み会では必ず誰かに連絡先を聞かれ、取引先の担当者に食事に誘われることも少なくなかった。

 でも、私はいつも笑ってかわした。

「すみません、今は仕事が楽しくて」

 それは半分本音で、半分は言い訳だった。
 すでに心も時間も、私は神谷さんに捧げてしまっていたからだ。

 彼はやがて取締役から専務へ、そして私が二十八になる頃には、社長にまで上り詰めた。
 役職のプレートが変わるたびに、名刺が刷り直されるたびに、私は誇らしさと不安を同時に抱いた。

 ──この人は、どこまで遠くへ行ってしまうんだろう。

 社長室は以前より広くなり、ガラス張りの窓からは街がよく見えた。
 新しく若い秘書が採用され、私は「チーフ秘書」という肩書きを与えられ、教育係になった。

「森下さん、社長って、やっぱりすごいですね……」

 入社二年目の若い秘書が目を輝かせて言う。
 その頬の上気を見ていると、かつての自分の姿を見るようで、胸の奥がざわついた。

 やがて、社長はその若い秘書にも手を伸ばした。
 それがわかったのは、ある日、彼女が更衣室で泣いているのを見つけたときだ。

「大丈夫?」

「……すみません、なんでもないです」

 かすれた声。消えかけたマスカラ。
 何も聞かなかったふりをすることを、私たちはいつの間にか身につけていた。

 やがて彼女は、会社を辞めた。
 他にも、同じようにボロボロになって去っていった女性たちがいることを、私は知っていた。

 「できる男」は、仕事だけでなく、欲望にも貪欲なのだと、私は身をもって学んだ。
 それでも私は、社長のそばに残った。残ることを選んだ。

 ──自分だけは特別でありたい。

 そんなみっともない願いを、私は心のどこかに隠していた。

 しかし現実は、残酷に均等だった。
 社長はどんどん若い女性を採用し、秘書にした。中には、関係を持ちながらも平然と仕事を続けていく子も出てきた。

 私の番が減っていく。
 仕事の指示は冷静で、以前と変わらない。
 けれど、夜の呼び出しは徐々に減り、やがて、ほとんどなくなった。

 社長の隣に立つ若い秘書の姿を、私は教育係という顔で眺めながら、内側で静かに嫉妬に焼かれていった。

 ──もう、私は必要ないのかもしれない。

 そう思った瞬間、胸の真ん中にぽっかり穴が開いた。
 その穴を埋めるように、私の中で別の声が芽生える。

 「早く結婚しなきゃ」

 気がつけば二十八。周囲の友人は次々と結婚し、子どもを産み始めていた。
 私は、愛人であることに人生を預けてしまった自分を、ふと冷静に見つめてしまったのだ。

 社内で年下の男性に告白されたのは、その頃だった。
 営業部のエースと言われる彼は、真面目で、よく笑う人だった。私の過去をどこまで知っているのかはわからない。それでも彼は、まっすぐに言った。

「僕、森下さんとちゃんとした未来をつくりたいです」

 その言葉を聞いた瞬間、胸が軋んだ。
 「ちゃんとした未来」という言葉が、私のこれまでの時間をやさしく、しかし容赦なく照らしたからだ。

 私は、彼のプロポーズを受けた。
 社長は、表向きには祝福してくれた。

「おめでとう。幸せになりなさい」

 そう微笑む目の奥が、何を思っていたのかは、今もわからない。

 結婚式の日、白いドレスを着た自分を鏡で見ながら、私は心の中でひっそりと別れを告げた。

 ──さようなら。
 ──私の青春を、全部連れて行ってしまった人。

 そのとき私は、まだ知らなかった。
 過去というものは、決してきれいに置き去りにできるものではないのだということを。


【第3部】夫の愛人と、元社長の訃報──因果のようで、まだ終わらない私の物語

 結婚してからの夫は、誠実だった。
 仕事もよくでき、着実に昇進していった。家事も育児も手伝い、私を「妻」として大切に扱ってくれた。

 それなのにある日、彼は沈んだ顔で言う。

「妙な怪文書が届いた」

 それは、夫の出世を妬む誰かからの嫌がらせだったのだろう。
 差出人不明のその紙には、私の過去が、冷たい事実の羅列として並べられていた。
 ──社長の長年の愛人だったこと。
 ──社内でどんな噂があったか。
 ──どれだけの時間を、その人のために捧げてきたか。

 手が震えた。
 これは罰だ、と瞬時に思った。
 社長の妻を傷つけたであろう自分への、神様からの天罰なのだと。

「……ごめんなさい」

 喉の奥からやっと絞り出した言葉に、夫は小さく首を振った。

「もう、過去のことだろ」

 それ以上、彼は何も聞かなかった。問い詰めもしなかった。
 ただ、少しだけ遠くを見つめるような目で、それでもいつも通り夕食の席に座り、いつも通り「うまいな」と言った。

 しばらくして、夫は会社を辞めた。
 「環境が嫌になった」とだけ言い、事業を起こし、幸いにも成功した。
 私は専業主婦に近い形になり、生活はむしろ豊かになっていった。

 ──けれど。

 夫に愛人がいることを知ったのは、あるパーティーの夜だった。
 二人の距離、視線の交わり方、場の空気が教えてくれた。

 彼女は若く、美しかった。
 かつての私がそうであったように。

 胸が締めつけられた。
 けれど、泣き崩れることはしなかった。
 その権利を、自分はどこかで手放してしまっていたからだ。

 ──ああ、これが、巡り巡ってきたものなのかもしれない。

 社長の妻のことを、私はほとんど知らない。
 それでも、きっとどこかで孤独に耐えていたのだろうと想像することはできる。その人に対して、私は何もしてこなかった。

 今、夫の愛人を前にして、私はその妻の顔を知らないまま、その痛みだけをなぞっている。

 夫とは、いつの間にかセックスレスになった。
 私自身も、年齢とともに性欲は静かになり、日々の生活の中でそれを必要とする場面は減った。
 それでも、夜ふと、人肌が恋しくなることがある。

 そんなとき、私はスマホを手に取り、誰か知らない人の告白を読む。
 そして、自分の身体がかすかに反応するのを感じながら、「まだ完全には冷めきっていない」自分を、少しだけ持て余す。

 ──稼いでくれる夫は、いい人だ。
 ──家族も大切にしてくれている。

 そう自分に言い聞かせながら、彼が愛人のもとへ向かう夜を想像し、胸の奥がひりひりと痛む。その痛みすら、どこか「受け入れるべきもの」として抱きしめてしまう自分がいる。

「私も、散々そうしてきたから」

 心の中でそう呟きながら、私は天秤にかける。
 社長に抱かれた回数と、夫が愛人と過ごしているであろう時間を。
 何の意味もない計算だと知りながら、それを「天命」だと言い聞かせている。

 そして先日、元社長の訃報が届いた。
 高齢になり、静かに息を引き取ったのだという。

 告別式の会場には、多くの人が集まっていた。
 かつての部下たち、取引先、家族。
 壇上に飾られた遺影の笑顔は、私が知っているどの表情とも少し違って見えた。

 焼香の列に並びながら、私は何度も自分の手を見つめた。
 あの人のために、何千枚もの資料をめくり、何百通ものメールを打ち、何度もスーツの袖をつかんだ手。

 棺に向かって一礼した瞬間、胸の奥で何かが静かにほどけた。
 許したわけではない。忘れたわけでもない。
 ただ、もう二度と会うことのない人として、私の中で位置が変わったのだと思う。

 帰り道、黒い喪服のまま、自宅最寄り駅のホームに立つ。
 電車を待ちながら、ふと空を見上げると、曇り空の隙間から細い光が落ちていた。

「私の青春は、あの人に全部あげちゃったんだな」

 呟いた声は、電車の音にかき消された。
 それでも、誰かに聞いてほしかった言葉が、やっと外に出た気がした。

 家に帰れば、いつもの日常が待っている。
 子どもの洗濯物、キッチンに並ぶ調味料、ソファでニュースを見ている夫。
 そのひとつひとつが、私が「選び直した人生」の証だ。

 過去は消えない。
 夫の愛人も、おそらくすぐには消えない。
 それでも私は、今日も夕食を作り、明日もまた目を覚ます。

 ──これは罰なのか、ただの巡り合わせなのか。
 答えはきっと出ないままだろう。

 けれど、こうして誰かの目に触れる形で書いたことで、
 少しだけ、あの頃の私を抱きしめてやれた気がしている。


秘密の青春をどう抱きしめ直すか──「天罰」ではなく「物語」として生きるために

 長い間、あなた(=昔の自分)は、自分の選択を「罰」として受け止めてきたのだと思う。
 社長の愛人だったこと。社長の妻を傷つけたかもしれないこと。
 その因果として、今の夫の愛人や、胸の奥の空洞を受け入れようとしてきた。

 けれど、それは本当に天罰なのだろうか。

 二十歳そこそこの若い女性が、「選ばれた」という言葉と、圧倒的なカリスマに心を奪われるのは、ある意味で自然なことだ。
 仕事に使命感を感じ、誰かの役に立てることに酔いしれ、自分の価値をそこに見出してしまうのも、人間らしい弱さだ。

 あの頃のあなたは、ただ必死だった。
 愛されたかったし、必要とされたかった。
 その手段がたまたま「社長の愛人」という形をとってしまっただけだ。

 今のあなたは、その事実から目をそらさずにいられる。
 だからこそ、夫の愛人の存在も、完全には否定できないのだろう。
 それでも、苦しくなる夜があるから、こうして匿名の場所に物語を流し込んだ。

 「これは、私の天命だ」と言い聞かせるのをやめて、
 「これは、私の物語だ」とそっと言い換えてみてほしい。

 罰として抱えるのではなく、
 ひとりの女性が生きてきた軌跡として、胸の内に置き直す。

 社長も、夫も、愛人たちも、
 みんな「完全な悪人」でも「完全な被害者」でもない。
 ただ、それぞれが自分の欲と寂しさを抱えたまま、生きているだけだ。

 そう考えるとき、あなたの青春は、
 汚れた過去ではなく、「物語として語られる価値のある時間」へと少しだけ姿を変える。

 この文章をここまで読んでくれた誰かが、
 あなたの選択を責めるのではなく、
 「よくここまで生きてきたね」と、心の中でそっと抱きしめてくれますように。

 そしていつか、あなた自身が、
 あの頃の自分に向かってそう言えますように。

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