【第一章】静かなる堕ちゆきの足音
――それは「守りたい」から始まった
夫の寝息が静かに重なる部屋。
私は、微かな音を立てぬようにベッドを抜け出す。
携帯のバイブレーションが、胸の奥をくすぐるように鳴っていた。
《佐伯です。話は通してあります。夜9時、パレス銀座》
短く冷たいその文章だけで、私はすべてを察した。
――これは、貸しではない。契約だ。
夫に告げることはなかった。
借金が返せなければ、この家すら手放す。
それだけは、どうしても避けたかった。
28歳。結婚して5年。
専業主婦として過ごしてきた私の手が、
初めて“自分の肉体”を交渉の道具として選んだ。
雨が上がった銀座の路地。石畳にヒールの音が濡れていた。
光を弾くネイビーのタイトスカート。
胸元のブラウスは一枚、レースを足しただけ。
誰にも見せたことのない下着が、肌にそっと吸い付く。
私は今、男の欲望を“支払い能力”に変えるためにここにいる。
パレス銀座のロビーは、夜でも白すぎるほど明るかった。
エレベーターの中、ミラー越しに映る私の顔は、もう“妻”ではなかった。
薄く塗ったルージュが、微かに揺れる唇をなぞる。
ドアが開いた瞬間、スイートルームの奥から、低く澄んだ声が響く。
「来たんだね。賢明な選択だ」
その声は、胸の奥に氷のような緊張を走らせた。
でも同時に――なぜか、その緊張が心地よかった。
【第二章】壊れていく正しさ、咲き始める欲望
――「もう少し、恥を晒してみなさい」
スイートルームの空気は、静かに冷えていた。
薄く張りつめたその冷気の中で、私は立ち尽くしていた。
革張りのソファに深く腰掛けた彼は、
グラスに注がれた琥珀色の液体を揺らしながら、
無言のまま、私を見ていた。
「……全部、君の意思だろう?」
低く、湿った声が、部屋の壁を這うように響いた。
私は、目を逸らさず、ただ、まぶたを一度ゆっくりと閉じた。
肯定も拒絶もしないその仕草が、
すでに全てを許した合図だと気づいたのは、
彼の指が私の足首に触れた直後だった。
熱い。
スカートの裾から滑り込むその指先は、
私の肌の温度とは別の時間を生きているかのように、
ひとつひとつの感覚を、ゆっくりと開いていった。
足首から、ふくらはぎ、膝裏、
そして、内腿の一番やわらかい場所へと、
触れるか触れないかの絶妙な圧で、撫で上げられる。
「ん……っ」
思わず、喉の奥から、息が溢れた。
私の脚は、知らぬ間に力を失い、
彼に身を預けるように揺れていた。
「濡れてるな」
低く嗤うような声とともに、
ショーツの布越しに、指がそこに触れた。
「違……うの……そんなつもりじゃ……」
そう言いながら、私は腰を引くこともできなかった。
むしろ、そのまま指を求めるように、
自分から脚を開いていた。
「身体は正直だ。もっと恥を晒してみなさい」
彼は私の手首を取り、そっと立たせる。
指先が、ブラウスのボタンを一つずつ外していく。
――まるで花びらを剥くように。
布の下に隠していた私の肌が、静かに露わになっていく。
ランジェリー越しの胸元。
レースの内側で尖り始めた先端に、
彼の親指がゆっくりと圧をかける。
そのたびに、私の全身はびくんと反応してしまう。
「……怖いのか?」
「……怖い。でも、それ以上に……感じてしまって」
声にした瞬間、羞恥と悦楽が混ざり合い、
私は彼のシャツにしがみついていた。
唇が重なり、すぐに舌が侵入してくる。
濡れた果実のように、唇が啜られ、
呼吸と心拍が混じり合う。
彼の手が、背中からブラを外し、
もう片方の手でスカートのファスナーを滑らせた。
下着一枚だけになった私の身体は、
まるで檻から解き放たれた獣のように、
彼の目に映っていたのかもしれない。
「ベッドに、うつ伏せになって」
命令された瞬間、私は背筋にぞくりと電流が走るのを感じた。
カーテン越しの灯りだけが照らすベッドの上、
私は彼に背を向け、うつ伏せになった。
彼の指が、腰骨からゆっくりと下り、
ヒップの丸みに沿ってなぞっていく。
レースを裂かれるようにして下着が脱がされ、
唇が、その奥へと沈んでいく。
「……ぁ、だ……め……そんな……っ」
背後から響く、熱を帯びた呼吸。
舌が、濡れた入り口の周囲を円を描くように舐め回し、
そのたびに私は、ベッドシーツを握りしめる。
「キレイだよ。……奥まで全部、飲み干したい」
舌が突き刺さるように奥まで入り込んできた瞬間、
私は全身をのけぞらせ、叫びを噛み殺した。
次の瞬間、彼は私を仰向けに転がし、
そのまま身体を重ねてきた。
正常位。
彼の熱が、入り口に当たる。
押し広げられる感覚とともに、
私の中が、ゆっくりと満たされていく。
「奥まで、感じるんだ。――全部、受け入れて」
その声のすぐ後で、
私は自分が“突き上げられる悦び”を知ってしまった。
動きは、狂おしいほど緩急をつけながら、
深く、深く、私を貫いてくる。
彼の腕に抱かれながら、
私は何度も何度も、溺れるように揺さぶられた。
やがて、体位は変わった。
後背位――
私はベッドの端に手をつき、
彼のリズムに合わせて、腰を揺らされ続けた。
自分が“女”という器そのものになっていく感覚。
汗の香り、肌の音、打ちつけるたびに響く湿った音。
「……もう、だめ……だめ……っ」
声を上げた瞬間、
彼は私の髪を引き、耳元で囁いた。
「君はもう、俺のものだよ。――全部、捧げて」
その言葉とともに、
私の中で何かが崩れ、弾けた。
絶頂。
震える腰、止まらない息、指先から溶けていく感覚。
私は、もう戻れなかった。
“妻”という名の衣を、完全に脱ぎ捨てていた。
彼の熱を全て受け止めたあと、
ベッドに横たわりながら、私は虚ろな目で天井を見上げた。
残るのは、温もりと余韻と、
もうひとつの、抗えない悦びの種だった。
【第三章】罪を抱いて眠る夜、そして覚醒
――「私の中に、彼が棲みついた夜」
絶頂の余韻に包まれながら、私はシーツの皺の中に頬を沈めていた。
背後から、まだ呼吸の荒い彼の吐息が、首筋をやさしく撫でている。
彼はゆっくりと、私の髪を梳きながら、
「いい女だった」と呟いた。
その声に、私の胸がじんと疼いた。
まるで、初めて“女”として認められた気がしてしまったから。
ベッドの中の沈黙は、
ふたりの身体がまだ熱を持っていることを際立たせていた。
私の中には、まだ彼の形が残っていた。
その奥に、彼の鼓動のかけらが、胎動のように宿っている気がした。
身体を動かすと、彼の痕跡がとろりと溢れ出し、
太腿をつたって、シーツを濡らした。
――汚れているはずなのに、どうしようもなく誇らしかった。
誰のために、何のために、こんなことをしたのか。
そんな理屈はもう、意味を持たなかった。
私は、抱かれた。
ただそれだけで、自分の存在が肯定された気がした。
静かな夜。
身体の奥が、まだぬるく、火照っている。
そのぬくもりが、私をひとりの“女”として再定義していた。
彼の指が、再び私の腰に触れた。
「……もう一度、抱いていいか」
その言葉に、返事はなかった。
けれど私の身体は、すでにゆっくりと彼の方向へ傾いていた。
彼は、今度はやさしく、
まるで壊れものに触れるように、
私の身体をすくい上げる。
ゆっくりと、正常位。
最初の一夜よりも、ずっと深く、内側へと届く動き。
「……あ……ん……」
声を抑えきれない。
彼の動きは穏やかで、けれど確実に、
私の奥を揺さぶっていく。
「君は……こんなにも、濡れる女だったんだな」
そう言われるたびに、
私は身体の奥が誇らしげに収縮していくのを感じた。
胸に唇を当てられ、
指先で首筋の脈をなぞられ、
私はただ、全てを預けるしかなかった。
やがて、私は彼の上に跨り、騎乗位になった。
背筋を反らし、彼の奥を自分で貫き、
腰をゆっくりと、波を描くように動かす。
汗ばむ肌がぶつかるたび、
滴る蜜が音を立て、濡れた音が部屋に響く。
胸を彼に預け、首筋に噛みつかれながら、
私は再び、身体の奥から崩れていく感覚に飲み込まれていった。
「もう……もう、だめ……」
快楽の波が幾重にも重なり、
意識の輪郭がぼやける。
そして――
ふたりの身体が完全に重なった瞬間、
私は、女として“覚醒”した。
静かに迎えた絶頂。
声にならない吐息が、彼の耳元で震えた。
ゆっくりと身体がほどかれ、
私は彼の胸に顔を埋めながら、目を閉じた。
静かな夜明け前。
私は、罪を抱きしめながらも、幸福という名の沈黙の中にいた。
ふたりの間には、約束も未来もない。
ただこの夜、このひとときだけが、永遠だった。
――この身体の奥に残された熱が、
誰かのためじゃない、
私自身のために感じた悦びだったと、ようやく気づいた。
愛ではなかったかもしれない。
けれど、確かにこれは、私の“生”だった。
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