スキー旅行なんて、私には無縁のものだと思っていた。
それでも夫に誘われて、夫婦同士の友人と四人で、雪深い山間の温泉旅館に来たのは、ただ静かに、湯に浸かりたかったから。
真っ白な朝。私以外の三人は早くにスキー場へ出かけていった。
ひとり残された私は、古びた旅館のロビーにある喫茶室で、薄く立ちのぼるコーヒーの香りと雪景色を眺めていた。
そのときだった。
「おはようございます。…もしかして、お一人ですか?」
低く、くぐもったような声。
驚いて顔を向けると、見知らぬ男性が、手にカップを持ったまま微笑んでいた。年齢は三十歳くらい。無精髭がうっすらと顔を縁取り、寝起きなのか髪が少し乱れている。
「寝坊しちゃってさ、仲間に置いてかれました。スキーには間に合いそうにないし、俺も今日はのんびりしようかと思って。」
そんな風に言って、彼は私の正面の椅子に腰を下ろした。
不思議と、私はそれを咎めようとも、拒もうとも思わなかった。
「あなたも、滑らないんですか?」
「はい。見てるだけで転びそうだから。」
「それなら仲間ですね。」
そうして私たちは、何気ない会話を始めた。
朝の静けさの中で、二人きり。ゆっくりと話すうちに、彼の声の温度が心に染みてくるのを感じた。笑い声が喉元で柔らかく揺れ、私の内側でなにかが、わずかにほころんだ。
「温泉、入りました?」
「まだ。混浴の露天風呂、あるみたいですね。」
「ああ、あそこ、誰もいなければ…ちょっといいかもですよ?」
彼の視線が、コーヒーカップ越しに私を見つめた。
覗き込むようでもなく、ただ真っ直ぐに、静かに。
「…一緒に入りませんか?」
その言葉に、心臓がひとつ強く跳ねた。
冗談のようでいて、どこか本気のようで。
私は笑ってごまかそうとしたけれど、彼の瞳の中には揺らぎがなかった。
気づけば私は、彼とともに廊下を歩いていた。
足音が畳に沈み、遠くで誰かの笑い声が雪に吸い込まれていく。
誰にも見られず、誰にも気づかれず、ただ二人、風呂場へ向かう。
湯けむりの中、浴衣を脱いでいく。
白い湯の奥へとゆっくりと沈むと、冬の冷たい空気と熱い湯が肌の上でせめぎ合い、
その温度差が、彼の視線をより強く感じさせた。
「……奥さん、スタイル、いいですね。」
「変な目で見ないでくださいよ。」
「じゃあ、普通の男が見る目って、どんな目なんですか?」
湯の中で笑いが弾けた。けれどその笑いの奥に、何か別のものがゆっくりと満ちていく。
彼の目が、湯の表面に浮かぶ私の身体の線を、滑るように辿る。
「…背中、流しましょうか?」
「…何もしないって、約束してくださいね。」
「はい。何もしません、奥さん。」
そう言って彼は立ち上がり、湯の縁で桶を満たした。
私はそっと湯から上がり、タオル一枚で身体を覆った。
そのとき、背中に感じた彼の指先。
湯よりも少しだけ熱く、優しく、しかし明らかに“男”の指。
「…背中だけですよ。」
「もちろん。」
けれど彼の手は、ゆっくりと、私の肩甲骨のあたりから腰へと滑り落ちる。
その掌に触れられるたび、皮膚が脈打つように感じた。
浴衣の中、胸の先端が、きゅうっと張り詰めてゆくのがわかった。
「…ダメですよ、本当に…」
「何がダメなんですか?」
「私、既婚者なんです。」
「わかってますよ。でも、旦那さんは今、ここにはいない。」
その瞬間、背後から彼の体温が触れた。
湯気の中、ふっと吹き抜ける風に背中が震えた。
そして次の瞬間、彼の両手が、私の胸を包み込んだ。
「…こらっ…!」
「…期待してたんじゃないんですか?」
彼の声は、耳元で溶けるように響いた。
私は、何かを否定する言葉を探そうとした。
けれど、身体が――拒んでいなかった。
彼の手は、ゆっくりと私の乳房を揉み、指先が固くなった蕾を捉えた。
湯に濡れた肌が擦れ合い、私の身体が彼の指に反応して震える。
「こんなに…敏感なんですね。」
「…やめてって言ってるのに…」
「じゃあ、止めましょうか?」
「……イヤ。」
その言葉は、私の唇から漏れ出ていた。
口が言葉を拒んでも、身体は真逆のことを叫んでいた。
彼の手が私の太腿の内側へ、やがて指が秘めた場所を探し当てる。
湯けむりの中、湯にまぎれて聞こえる水音がいやらしく響いた。
「…ここ、もう…濡れてるじゃないですか。」
「……ダメ、ここじゃ…」
「誰も来ない。…ねぇ、このまま…」
彼の唇が私のうなじに触れた瞬間、
私は目を閉じ、すべてを委ねる覚悟をした。
彼の手は、静かに、けれど確かに私の奥へと入り込んでいた。
熱をもった指が、まるで私の中を知り尽くしているかのように動くたび、
理性の輪郭がふわふわと、湯気のようにほどけてゆく。
湯船の端、苔むした岩のくぼみへと導かれ、私はそっとそこに身を預けた。
雪の冷気が頬に触れ、肌がひときわ敏感になる。
「寒くない?」
彼が湯をすくって、私の肩や胸元へと何度もかけてくれる。
その動作がどこか優しく、私は思わず微笑んでしまった。
「…そんな顔で見ないで。」
「どんな顔?」
「安心してる顔。」
「それは、奥さんが…綺麗だからだよ。」
彼の言葉に、心の奥で何かがきゅっと疼いた。
夫以外の誰かに、そんな言葉を言われて嬉しいと思うなんて――
彼の唇が私の鎖骨に触れた瞬間、考えることをやめた。
湯の中に沈む脚を、ゆっくりと開かされていく。
冷たい岩肌が腰のあたりに触れたかと思えば、そのすぐ上を彼の唇が這ってきた。
「ん…っ」
思わず声が漏れた。
彼の舌が、奥深くまで私の秘密を味わうように動く。
舌先が触れるたび、体が跳ねるように反応する。
胸の奥から熱いものがじわじわと込み上げ、喉元がひくひくと震える。
「やだ…もう、変になりそう…」
「変になっていいよ。俺の前だけで。」
言葉の端々に宿る色香が、さらに私を追い詰める。
そして彼は、体を持ち上げ、私の視界の中で自分自身を解き放った。
「…ねぇ、入れても…いい?」
問いかけるようでいて、答えを待ってなどいなかった。
ぬるりと、その熱が私の中に滑り込んできた。
静かな雪の風景に、抑えきれない吐息が溶けてゆく。
「…ん、ふぅっ…」
熱い。深い。
ただ満たされる、それだけのことが、どうしてこんなにも心を揺らすのだろう。
「奥さん、すごく…感じてる。」
「だって…あなたのが、すごいんだもの…」
ぬちゅ、ぬちゅ、と音を立てて、私たちの身体はひとつになっていく。
彼の腰がリズムよく打ちつけられるたび、快感の波がひたひたと押し寄せ、私は何度もその波に攫われた。
指が絡み合う。
視線が溶け合う。
雪が降りしきる音がまるで祝福のように降っていた。
「奥さん、…もう…いい?」
「ええ…私も…もう…っ」
高まる熱が頂点に達し、私は彼にしがみつく。
彼もまた、低くうめき声をあげて、私の奥に達した。
世界が、いったん、すべての音を失ったようだった。
湯船を出ると、私は自分が少しだけ変わっているのを感じた。
浴衣をまといながら、彼の横顔を見つめる。
名も知らない。どこから来たのかもわからない。
けれど、そのことが、どうしようもなく切なく、愛おしかった。
「…ビール、飲みます?」
「え?」
「部屋、来ませんか?」
ふと彼が差し出したその言葉に、私はまた頷いていた。
再び裸になり、身体を重ねたその夜。
私は何度も、泣きそうになるくらいに快感に震え、
自分がひとつの生き物として、まだこんなにも感じられることに驚いた。
結びに──
翌朝、雪はさらに深く積もっていた。
何事もなかったかのように、夫と友人たちが朝食の席に並ぶ。
私は、その空気の中でただ静かに湯呑を手に取り、笑った。
誰にも話せない、でも確かに私の中にある感覚。
湯気の向こうで交わした熱――
それは、たった一夜の夢だったのかもしれない。
けれど私は今でも、あの指の感触と、吐息の熱を、
皮膚のどこかで、確かに覚えている。



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