夫にも、触れられていない。
そんな日々が、もうどれくらい続いているのだろう。
欲望という言葉から最も遠い場所で、私は“妻”として、“母”として、正しく生きてきた。
それが女の幸せだと、思っていた。
あの日までは。
午前8時32分。
いつものように山手線に揺られていた。
私が電車の隅に寄り、バッグを抱えるように立ったとき――
背後からふっと、体温が流れ込んできた。
汗のにおいではない。
香水でもない。
もっと、生の匂い。
人間の、体温の輪郭のような“ぬくもり”が、背中に密着してきた。
私は動けなかった。
混雑していたから。
そう――言い訳なんて、いくらでもあった。
でも本当は、逃げなかった。
その“人”の指先は、触れていない。
ただ、私のヒップラインの外側に沿って、空気を押しのけるように浮いていた。
布一枚越し。
でも、そこには確かに「欲」があった。
指先の緊張、私の呼吸、見えない目線、すべてが“触れていない”ことを際立たせていた。
なのに――
私は脚を閉じることすら、しなかった。
むしろ、わずかに体重を後ろへ預けていた。
下着の内側が、じんわり濡れていくのを感じた。
私は、今、電車のなかで、誰にも気づかれずに、
自分の存在が“女”に変わっていくのを、確かに感じていた。
数日後。
彼の指先が、ついに私の太ももの内側へ触れた。
布越しに、ゆっくりと滑る。
まるで私の身体の地図を読み解くように、静かに、執拗に。
下着の上から、ふわりとそこに――触れた。
私は喉を詰まらせ、目を閉じる。
息が吸えない。
彼の指先は動かない。
でも、確かに“そこ”にいた。
振動するレール音のなかで、
私は彼の“静止”の中に、極限の刺激を感じていた。
声を漏らしてはいけない。
でも――どうしても、抑えきれない。
唇の奥から、かすれた「あ…」という吐息が漏れた瞬間、
彼の指がわずかに、圧をかけてくる。
──ああ、だめ。
その一押しが、私を越えさせてしまう。
電車の揺れが、彼の手をわずかに押し上げた。
下着越しのそこを、指先が微かに震わせる。
私はもう、戻れなかった。
下腹部が、熱の塊になり、
全身の毛細血管が開いていく。
震える膝、つり革を握る手、首筋を伝う汗――
それらすべてが、彼との交わりのように連動していた。
そして次の瞬間、
私の中で、なにかが崩れた。
内側から突き上げるような波。
全身の皮膚が光に包まれ、
喉奥から小さく洩れる声を、必死に押し殺して、
私は――電車の中で、絶頂を迎えていた。
身体が痙攣していた。
股間がずくずくと脈打ち、
膝がわずかに折れた。
でも、誰も気づかない。
この“沈黙の中の絶頂”を知っているのは、
私と――彼だけだった。
次の駅で、彼は何も言わずに降りた。
顔を見ても、名前も知らない。
でも、私は確かに、あの人に抱かれていた。
言葉ひとつなく、目も合わさずに、身体を知り合った。
私は、心も身体も、溢れていた。
その日、自宅の鏡で自分を見たとき、
頬がうっすらと赤く、唇が艶めいていた。
まるで“オンナ”だった。
それから彼を見かけることはなかった。
それでも、私は毎朝、同じ場所に立ち続けている。
あのときの余韻だけが、まだ下腹部に温かく残っている。
忘れようとすればするほど、身体が思い出す。
あの触れない手。
あの無音の絶頂。
あの、壊されて、ほどけて、許された感覚。
私は、もう、かつての私ではない。
夫に抱かれても、もう感じない。
なぜなら私は、誰にも知られないまま、
朝の満員電車のなかで、
触れられずに果てた女になってしまったのだから。
「触れられない悦び」は、
私を壊し、
そして、女として、再び生まれさせた。



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