会社の窓から見下ろすビル群は、まるで無表情な巨人たちの群れのように沈黙していた。
終電も過ぎ、時計の針はとっくに日付をまたいでいる。静まり返ったオフィスに、私のキーボードを打つ音だけが響いていた。
私、31歳。化粧品会社のマーケティング部に勤めるキャリアウーマン。
かつては誇らしいプロジェクトリーダーだった私も、最近は些細なことで苛立ち、部下に声を荒げては自己嫌悪に陥る日々。
このところ、ずっと、心がささくれ立っていた。
この日も例外ではなかった。残務を片付けながら、私は自分の中の小さな怒りの塊を、デスクの隅に押し込めていた。
静けさは、時に凶器になる。
言い訳も、誰かへの八つ当たりも許されない、ひとりきりの時間。
私は自分自身から逃げ場を失っていた。
ふと、思いつく。
この場所で、誰にも邪魔されずに何か、思いきり“ばかげたこと”をしてみたら、少しは軽くなれるのではないかと。
最初にやったのはオフィス内の全力疾走。
高いヒールを脱ぎ捨てて、カーペットの上を駆ける。大人の女のすることじゃない。でもその不恰好さが心地よかった。
次に、逆立ち歩き。
昔は得意だった技も、今では5メートルでギブアップ。
けれど、吐き出せなかった感情が汗と一緒に蒸発していくようで、私の顔には久しぶりに笑みが浮かんでいた。
そして、その熱に背中を押されるように、私は次の衝動に身を委ねてしまった。
――このまま、全部脱いでしまったらどうなるのかしら?
そんな考えは、唐突だった。けれど、どこかでずっと望んでいたような気もする。
誰も見ていない。誰にも止められない。
誰のものでもない私のからだを、私だけの欲で解放してみたくなった。
まずは上着を脱ぎ、ブラウスのボタンをひとつ、またひとつと外していく。
冷たい空気が、肌に触れるたびに、細胞が粟立ち、私は静かに息をのんだ。
薄いレースの下着一枚で、私はオフィスの中央に立った。
この時点で、既に私は“異常”だった。
だけどそれ以上に、心が満たされていく。
「見られていない」という安心と、「見られてしまうかもしれない」という緊張が、背中を這うように共存していた。
私はデスクの上にハイヒールのつま先をかけ、スカートの裾を翻すようにしてよじ登った。
蛍光灯の下、フロア全体を見渡す位置から、私は仁王立ちする。
——なんという、支配感。なんという、解放感。
理性の枷をすべて取り払ったとき、身体の奥からふつふつと湧き上がる熱に、私は思わず指先を震わせた。
この行為がただのストレス解消などではないと気づくのに、時間はかからなかった。
それは、儀式だった。
私が私自身にしか明かせない、秘められた夜の遊戯。
その夜から、私は残業という名の逃避を繰り返すようになった。
一人になる時間を見計らい、下着姿になって静寂のフロアを歩く。
デスクの上、会議室のホワイトボードの前、コピー機の脇……。
誰もいないはずの空間に、あたかも“誰か”の視線を想像しながら。
そしてある夜、私はついに、その一線を越えた。
シャツも、スカートも、そしてランジェリーさえも脱ぎ捨て、私は裸足でカーペットに立っていた。
自分の吐息がやけに大きく聞こえる。
胸の先端がきゅっと硬くなる。
汗が背骨を伝って、尾てい骨をかすめる。
私は、四つん這いになって歩いてみた。ソファの背に脚をかけ、ぐっと股を開いて跳ねてみる。
可笑しくて、愉しくて、でも何より——どうしようもなく、気持ち良かった。
その夜の私は、まるで“誰か”に見られたがっていた。
誰かの目に見つめられ、裁かれ、抱かれたくてしかたがなかった。
翌朝のプレゼンは完璧だった。
私の中で何かが満ちて、吹っ切れたように。
部下たちの目にも、自信に満ちた私が映っていたに違いない。
だがその夜、私は部長に呼び出された。
「君さ……よく残業してるよね」
その何気ないひと言に、心臓が強く脈打った。
まるで水面に小石を落としたように、静寂の中で波紋が広がる。
「その…実は、監視カメラ、回ってるんだよ。君の……あの行動、全部」
顔から血の気が引くのを感じた。
唇がひとりでに震える。
逃げ場のない羞恥と、もうひとつ——奇妙な、熱。
私は……知らないうちに、見られていた。
部長は言った。
「今後のことだけど、少し話そうか。……このまま、君を放っておけないから」
彼の目が、静かに、けれど明らかに変わっていた。
そこには上司としての義務ではない、“別の何か”が宿っていた。
私は、頷いた。
抗うことも、拒むこともできずに。
心のどこかで、もうすべてを委ねたくなっていた。
——そして、“夜の罰”が始まった。
会議室のドアが、静かに閉じられた音がした。
部長のデスクの前に座らされると、私は手のひらに汗をにじませたまま、黙って彼の言葉を待った。
「……君のやっていたこと。最初に気づいたときは、正直、驚いたよ」
彼の声は、思いのほか優しく、そして低かった。
責めるでも、叱るでもなく。ただ、真っ直ぐに私を見つめていた。
「でも……どうしてだろうね。すぐには止める気になれなかった。
むしろ、毎晩、君が何をするのかが気になって……カメラを見るのが習慣になってしまったんだ」
その瞬間、全身の血が、じわじわと顔に上がってきた。
羞恥と絶望、そして——抗えない熱。
「君は……あんなふうに見られたがってたのか? それとも、誰かに見つけてほしかったのか?」
私は、答えられなかった。
ただ、喉の奥で何かがこみ上げてくるのを、懸命に押し殺すしかなかった。
部長はゆっくりと立ち上がり、私の背後へとまわる。
そのまま椅子の背もたれごと、私の身体を引き寄せるようにして囁いた。
「ここで、全部話してくれるか?」
彼の指が、スーツの上から私の肩にそっと触れた瞬間、電気のような震えが走った。
私の中に、カメラの前で全裸になっていた“あの私”が、うずくまっている。
それを、見透かすような声だった。
私は、頷いた。
「……見てほしかったんです。誰かに……女としての、私を」
空気が震えるほどの沈黙ののち、彼の手が、私の後頭部に触れた。
まるで壊れ物に触れるように慎重で、それでいて、有無を言わせない力。
「わかった。じゃあ、今日からは俺が——“ちゃんと”見てやる」
私は椅子ごと立たされ、会議室の壁際まで連れて行かれた。
会議室の一角には、まるで演台のように少し高くなったプレゼンステージがある。
部長はそこで、私に命じた。
「シャツを脱げ。さっきの夜みたいに」
心臓が喉の奥まで競り上がってくる。
でも……私は逆らえなかった。
否、どこかでそれを望んでいた。
ひとつずつ、ボタンを外す指先が震える。
彼の視線が、私の肌をなぞるように絡みつく。
「スカートもだ。ゆっくりと」
私が履いていたタイトスカートが、音もなく床に落ちる。
下着姿の私を、部長がじっと見つめている。
その瞳の奥にあるのは、欲望だけではない。支配と、理解と、慈しみすら混じった、奇妙な熱。
「下着も、外そうか」
私は震えながら、自分の肩紐に指をかける。
冷たい空気が素肌に触れたとき、私はもう、彼の“所有物”になっていた。
「きれいだよ。君のからだ、夜よりも静かで、美しい」
部長の手が、私の頬に触れた。
優しく、でも逃がさないように。
そして唇が、私の耳元にかすめる。
「このからだ、ずっとカメラ越しに見てた。今こうして目の前にあると……夢みたいだな」
私は、見られることに慣れていたはずなのに、彼の目の前では全身が火照るようだった。
彼の手は私の腰を抱き、そっと押し倒すように会議テーブルの上へ導いた。
冷たい木の感触と、部長の温かな指先の対比。
肩を撫で、胸元をなぞり、内腿を静かに押し広げていく。
「声を出すな。防音じゃないからな。……でも、感じてる顔は、隠さなくていい」
彼の指が私の奥を探るように動き始めたとき、私は目を見開いたまま、天井を仰いだ。
蛍光灯の粒子が、あの夜と同じように滲んで見えた。
部長は、何度も私の名を囁いた。
命令も、賞賛も、罰も、すべてその手と声に込められていた。
そして私は、彼の言葉に、身体の芯から従った。
何度も、何度も、静かな命令に導かれ、私はそのたびに“躾けられて”いった。
快楽が罪を浄化していく感覚。
羞恥が悦びへと転じる瞬間。
私は、気づけばもう——抗うことを忘れていた。
プレゼンのときに着ていた真っ白なシャツが、無造作に椅子の背にかけられていた。
その白さが、今の私をより淫靡に照らしていた。
終わったあと、部長は言った。
「君は、見られることで輝く。だからもう、独りで夜を迎える必要はない」
私は、そっと頷いた。
あの夜から、私の“残業”は部長との“夜のミーティング”へと姿を変えた。
誰にも言えない秘密を抱えながら、私は以前よりも柔らかい顔で仕事に向かうようになった。
——でも時々、私はそっとカメラの位置を見つめる。
そのレンズの向こうに、あの夜の“目”がある気がして。
そして思うのだ。
私はもう、完全に——見られる悦びの虜になってしまったのだと。



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