第一章:波音と湯気、私はほどかれていく
三十七歳、子育ての手がやっと落ち着いてきた頃だった。主人と子どもを連れて訪れたのは、伊豆・下田の海沿いに建つ大型旅館。夕暮れの水平線に、ゆっくりと橙の光が沈み、空は名残惜しそうに桃色と群青を撫であっていた。
旅館は、三つの館がガラス張りの渡り廊下で繋がれ、潮の香りと檜の香りが交差するような不思議な構造をしていた。どの館にも露天風呂があり、湯上がりには海風が頬をくすぐる。裸足に畳の感触、そして薄い浴衣の下を風が通り抜けると、まるで自分の皮膚が初めて呼吸するような感覚になる。
「先に寝てていい?」
そう言って、主人は早々に部屋の明かりを落とし、まだ幼い息子の髪を撫でながら、眠りに落ちた。静かな寝息がふたりから聞こえはじめると、私はそっと立ち上がる。
――やっと、私の時間だ。
そう思った瞬間、心の奥に少しだけ、誰にも聞かれたくないような音がした。胸の内側で、どこか疼くような音。
私は鏡の前で浴衣を着直した。白地に藍の柄が、灯りの下でふわりと揺れる。髪は上げずに濡れたまま下ろし、素肌の火照りを冷ましながら館内を歩く。誰もいない渡り廊下。足裏にひやりとした板の感触、遠くから潮騒が聞こえる。
「…湯巡り、してこよう」
女将に渡された湯巡りマップには、海の湯、月の湯、檜の湯、三つの露天風呂が記されていた。最初に入ったのは「月の湯」。月明かりが湯面に揺れるその空間に、私はしばし陶然と身を委ねた。
肌に纏わりつく硫黄の香りと、湯の熱、そして昼間の白ワインがじんわりと身体をめぐる。浴衣越しに汗ばむ肌を想像しながら、私は次の湯を目指して裸足で廊下を渡った。
その途中、ふと背後から声をかけられる。
「マッサージ、いかがですか? 今でしたら、お待たせせずにご案内できます」
若い男の声だった。
振り返ると、白い制服を着たスタッフの青年が立っていた。おそらく、二十代の後半くらいだろうか。程よく焼けた肌に、前髪の先から雫がひとつ、鎖骨へと滑っている。
――ああ、この手に触れられたら、どんな夢を見られるだろう。
そんなことを思う前に、私はすでに頷いていた。
「お願い、してもいいですか?」
「もちろんです。こちらへどうぞ」
彼の背中を追って、静かな回廊を歩く。右手には小さな中庭、遠くに聞こえる波音。そして左手には、ひっそりと設けられたマッサージルームの灯りが揺れていた。
身体は熱く、心はどこか冷たいまま。
私は知らなかった。
この夜、私の境界線が、見えない指先でなぞられ、ほどかれていくことを。
第二章:酔いと欲望の深層へ
マッサージルームに足を踏み入れると、空気が変わった。
照明は深海のように淡く、呼吸音さえ包みこむ静けさの中に、檜の香がほんのり漂っている。奥のリクライニングベッドに誘導されると、私はそっとそこに身を預けた。浴衣の紐を緩め、背中を見せるようにうつ伏せになると、彼の指先がそっと、肩の上に触れた。
「お身体、少し冷えてますね」
そう言いながら置かれた温かい掌が、私の肩甲骨のあたりに沈んだ瞬間、ぞくりと震えた。
――熱い。
ただの掌なのに、背中をじんわりと焦がしてくる。
その熱が、肩から背骨を伝って腰のあたりまで届くと、眠っていた何かがゆっくりと目を覚ますような感覚があった。
「強さ、いかがですか?」
彼の声は低く、囁くようで、どこか私の耳ではなく、内側に直接語りかけてくるようだった。
「……ちょうどいいです」
掠れた声で返すのがやっとだった。指圧は徐々に深く、確実に、私の輪郭をなぞってゆく。肩、背中、腰。布越しに押されるたび、骨と骨の間がゆるみ、息が浅くなってゆく。
やがて、彼の手がふくらはぎに触れたとき、私はわずかに脚を閉じるような仕草をしていた。気づけば浴衣は膝までまくれ、素肌にタオルがそっと置かれる。
その布越しに感じる掌のひら、筋肉のひとつひとつが溶けていく。
――でも、気を抜いたら、きっと何かがほどけてしまう。
そう思って、意識を必死に保とうとするのに、波のような眠気と、熱をはらんだ快感が、それを何度も飲み込んでくる。
「仰向けに……お願いしてもいいですか?」
ぼんやりした頭で頷いたのか、彼の手に導かれて身体が仰向けになっていた。瞼の奥、部屋の天井に揺れる灯りがぼやけて、意識の底に引きずり込まれていく……。
気づけば、どこかが冷たい。
目を開けると、浴衣の前が大きくはだけていて、胸元から腹部にかけて風がすべっていた。視線を下ろすと、膝を立てた脚の奥に、なにか違和感が走る。
――履いていない。
反射的に身体を起こした瞬間、目の前には彼がいた。右手には携帯。左手は、私の脚の奥――そこに触れていた。
「……っ!」
「……すみませんっ!」
彼の手が跳ねるように離れ、携帯を背中に隠した。私は、浴衣の裾を掻き寄せるようにして脚を閉じた。
けれど、それでも、彼の手のひらの余熱が、確かに私の身体に残っていた。
「声、かけたんですけど……全然起きられなくて。胸が……あまりに綺麗で、つい……」
彼は震える声でそう言った。
私は言葉が出てこなかった。羞恥も、怒りも、なにより自分が気づかないうちに、そんな風にされていたという事実に、身体が震えた。
けれど同時に――
その手が触れた瞬間、奥の奥で疼いていたものが確かにある。
「……飲みすぎて……ごめんなさい、私……」
気づけば、私も謝っていた。
まるで、責められるべきなのは、私のほうだとでも言うように。
沈黙の中、私の鼓動だけが耳を打つ。浴衣の合わせ目から覗く肌に、彼の視線がわずかに絡んで、外されたままのパンツが、椅子の上に置かれていた。
「……返してもらえますか?」
掠れた声でそう言うと、彼は無言で手渡してきた。私がそれを手に取り、もう一度浴衣の裾を整えたとき、ようやく現実が戻ってきたような気がした。
「……写メ、消してもらえますか?」
彼は無言で頷き、スマートフォンの画面を開いて私に見せた。画像フォルダ。そこには、確かに私が写っていた。浴衣が乱れ、仰向けに眠る私の姿。
彼は指先で、その一枚一枚を消してゆく。
私はそれを、ただ見ていた。
そして、自分の心の中で――消えないものがあることにも、気づいていた。
第三章:赦しと熱の余韻
浴衣の合わせ目を整えても、指先が微かに震えていた。
息は静かに、しかし浅く、胸の奥で何かがまだ疼いていた。
マッサージルームを出て、渡り廊下に足を踏み出すと、夜の海風がひんやりと肌を撫でていった。頬に触れた瞬間、さっきまでそこにあった“熱”が幻だったのではと錯覚する。
――でも、確かに触れられていた。
浴衣の内側、脚の付け根あたりに、まだ掌の感触が残っていた。
まるで、手のかたちをした罪。
廊下の途中、私はふと足を止めた。
そのまま部屋に戻るのが、なぜか怖かった。
あの布団のなかには、私の“正しさ”が眠っている。
夫と子供という、誰にも侵せない静寂。
それでも、私は踵を返して、もう一度、露天風呂へと向かった。
「月の湯」――さっき、最初に入った湯処。
誰もいない湯面に、夜の月がゆらゆらと溶けている。
私は、静かに浴衣を脱ぎ、肌を風にさらす。
裸になった瞬間、思わず目を閉じた。
全身のどこかに、まだ彼の手の痕がある気がして。
湯に足を沈める。
その熱が、さっきまでとは違って感じられた。
皮膚だけでなく、骨の奥、もっと奥。
彼に触れられた場所が、先に湯を吸い込んでいくような錯覚。
まるで、自分の身体じゃないように、敏感だった。
湯のなかに全身を沈めて、私は両腕で自分の胸をそっと抱いた。
わずかに尖った乳首が、腕に触れる。
さっき、彼が見ていたのは、この柔らかさ。この色。この温度。
――見られて、感じた。
触れられて、奪われて。
けれど、私は何も抵抗しなかった。
それは、眠っていたせいだろうか?
酔っていたせいだろうか?
それとも。
私は、赦していたのだ。
彼を。
そして、自分自身の渇きを。
だってあの時、私は確かに“求めていた”。
声には出さず、目にも出さず、
けれど浴衣の奥の湿り気が、誰よりも雄弁に語っていた。
月の湯に身を沈めたまま、私はそっと指を腿に這わせた。
熱い湯と、自分の熱とが混ざり合う。
そのまま、股の奥へと滑っていき――
びくん、と肩が揺れる。
さっき、彼の指が触れた場所。
あの一瞬が、まるで身体に刻まれたように、
自分の指でも、同じところに触れると、反応してしまう。
まるで、初めて目覚めたように。
私の中の“女”が、静かに泣いていた。
快楽の果てに、私は何を赦したのだろう。
彼を?
自分を?
それとも、結婚して以来、封印していた“もう一人の私”を?
月は雲に隠れ、湯面は静かに闇に沈んだ。
私は湯を出て、ゆっくりと身体を拭き、浴衣をまとった。
もはや“濡れたまま”ではいられない。
けれど、乾ききることもない。
部屋に戻ると、夫が目を覚ましていた。
「どこ行ってたんだよ、もう……」
声には少し怒気が混じっていた。
「……ごめんね。長風呂しすぎた」
私は静かにそう答えた。
本当のことも、嘘も、何も言わない。
この夜を言葉にすれば、すべてが壊れてしまう気がしたから。
彼の隣で布団に入る。
肩と肩が触れているのに、まるで誰か他人のようだった。
私の身体は、さっき触れられた場所を、まだ覚えている。
忘れるには、もう少し時間がかかる。
けれど、もう戻れないわけでもない。
熱は消えない。
でも、それは罪ではなく、赦しのようなものかもしれない。
私の中に、知らなかった深さがある。
それを知ってしまった今――
私はもう、ただの「妻」には戻れない気がした。
止まらないなら、もう踏み込んで。
娘は彼氏との事で悩んでいました…。
夫に先立たれ、一人娘と二人きりの生活。そんな娘を私はほっておくなんてできませんでした。
ただ娘の悩みが普通ではなかったのです。




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