第一章:彼のいない旅館、知らない男の背中
東京から特急で二時間半、山間の温泉地に降り立ったとき、私はまだ迷っていた。
この旅は、本来、彼と過ごすはずだった。
記念日。なのに彼は「ごめん、仕事が入った」と短く言い、私を残して行った。
キャンセル料がもったいない、そう自分に言い聞かせて予約通り一人で向かったけれど、実際は彼に置いていかれたことへの意地だったと思う。
宿は静かで、ロビーには柔らかな笛の音が流れていた。
一人客は珍しいのか、女将は少し驚いた顔をしたが、すぐに笑みを取り戻して「離れの部屋」を用意してくれた。
夕食を終えたあと、私は浴衣に着替えて混浴の露天風呂へと向かった。
夜の帳が降り、湯けむりの中にぼんやりと灯る提灯が幻想的だった。
「混浴なんて誰も来ないだろう」と高を括って、私はタオルを一枚だけ持って湯に入った。
お湯は少し熱くて、肌がきゅっと引き締まる。
誰もいない、と思っていたのに、湯の向こう側に気配がした。
「こんばんは」
低く、くぐもった声。
そこには、年の頃五十代くらいの男性がひとり、背中を湯に預けるように座っていた。
黒く焼けた肩と腕、短く刈られた髪。まるで山に生きる動物のような、野性を感じる背中だった。
「おひとりですか?」
「ええ…そちらも?」
「こんな静かな湯に女ひとりなんて、男の目には毒ですよ」
冗談のつもりかもしれない。でも、湯気のせいじゃない。私の頬が、かっと熱を帯びたのが分かった。
第二章:湯けむりの奥、視線が追いかけてくる
彼のいない温泉で、見知らぬ男と混浴。
その事実だけでも、背徳感に胸がざわつく。
でも、それ以上に――私は彼の視線を感じていた。
湯けむり越しに、確かに追いかけられていた。私の肩、鎖骨、濡れた髪の流れ、胸元にかかるタオルの布地の揺らぎまで。
そう思うと、心拍が早まっていく。水音が耳の奥に反響して、熱にくらくらしてきた。
「失礼。背中、流しましょうか」
その声に、私は反射的に「え?」と返していた。
無防備なままうなずいてしまったのは、寂しさからか、欲望からか、もう分からない。
私は彼に背を向けて、岩に膝をついた。
するとすぐに、荒れた指先が私の背中をなぞった。
ぬるりと、湯と一緒に滑っていく。
指のひとつひとつがまるで言葉のように私の肌を語ってくる――「あなたは、綺麗だ」とでも言うように。
「少し、肩を…」
彼の手が、私の浴衣の襟をわずかに広げた。
肩が露わになる。湯気に包まれ、月に照らされて、私はまるで誰かに観賞される器になったような気がした。
背中だけじゃない。腰骨の上、タオルの端に沿ってなぞるように、彼の指先は音もなく滑り込んでくる。
唇が、うなじに触れたとき――私はもう、自分の声を止めることができなかった。
第三章:ひと夜の熱に抱かれて、わたしは還る
湯からあがると、彼は「部屋、案内してくれる?」と一言だけ言った。
私は無言で頷いた。頭より先に、身体が、心が、彼を欲していた。
部屋に戻ると、濡れた浴衣のまま、私は彼に抱きついた。
そして、唇が重なる。まるでずっと前から求めていたみたいに、深く、深く。
彼の手は、私の腰をつかみながら、浴衣の帯をゆるめた。
重なり合う瞬間、私は自分の名を呼ぶ声すら知らない彼に、すべてを許した。
熱くて、苦しくて、でも気持ちよくて。
彼の中に吸い込まれていくたびに、私は「女」としての感覚を取り戻していった。
何度も、何度も波が訪れるたびに、私は過去の寂しさや、彼への怒り、喪失感を脱ぎ捨てていくようだった。
やがて、彼の腕の中で、私は静かに震えながら絶頂を迎えた。
その後、言葉はなかった。
彼はそっと私の髪を撫でてから、何も言わずに部屋を出て行った。
残された私は、月の光を背にして、自分の身体を見下ろした。
湯けむりの夜に、私は一度、すべてを失い、そして――取り戻したのかもしれない。
余韻:
翌朝、露天風呂には誰もいなかった。
けれど、岩の端に置かれた小さな桜の枝が、一輪、湯の縁に浮かんでいた。
「ありがとう」と私は心の中でだけ、あの男に告げた。
名前も知らない、けれど確かに私の一部に触れてきた、ひと夜のぬくもりに。



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