雨音がほどいた母の境界線──家庭教師の来訪で目覚めた夜

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玲子(38)/神奈川県・私鉄沿線

【第1部】雨音が境界を溶かす夜──家庭教師の来訪で崩れた「母」の顔

娘が中学三年になった春、夫は「父親らしいこと」をしたいのだと言って、ひとりの大学生を連れてきた。
A君。私立大の二年。背が高く、細く、笑うと目尻がやわらかく下がる青年。夫の故郷の親友の息子で、私鉄で二駅先の街で一人暮らしをしている、と紹介された。

娘はもともと成績が良く、塾も通っている。
「わざわざ家で?」という戸惑いを隠そうとしていたが、夫は聞かなかった。親友への義理と、父親の面目と、たぶんその両方で――決めたことを引っ込められない顔をしていた。

私だけが気づいていた。
娘には、心の中で大事にしている同級生がいる。だからA君のことは「親戚のお兄さん」みたいに扱い、距離を守る。それが娘の選んだやり方だった。

それなのに私は、胸の奥がほんの少し浮き立つのを止められなかった。
家に若い男性の気配が増えるだけで、空気が変わる。言葉の速度や、笑いの温度や、玄関の音まで。

初夏、A君は家に馴染んだ。
夫は「用事がなくても食べに来なさい」と勧め、家庭教師のない日にも、大学帰りに夕食だけ食べて帰ることが増えた。最初は夫も嬉しそうだったのに、年齢差のせいか会話が続かなくなって、いつの間にか“場”は私に預けられた。

七月に入るころ、夫の帰宅は遅くなり、深夜や早朝に酔って戻るようになった。
家の中に、言い訳の多い沈黙が増えた。私はそれを片づけながら、何かを諦める音を聴いていた。

そして七月末。
娘と夫は親戚のいる田舎へ数日出かけ、私は仕事の都合で家に残った。ひとりの夕方、友人の店の手伝いから戻ると、小雨が土砂降りに変わっていった。

午後五時すぎ。
チャイムが鳴って、私は息を呑んだ。
ドアの向こうに、ずぶ濡れのA君が立っていた。娘が旅行を伝えていなかったのだろう。彼は“いつも通り”に来た。

「ごめんなさい……今日は娘が」
「いえ、僕が確認しなくて」

濡れた前髪から水滴が落ちて、玄関のタイルに小さな点を打った。
私は咄嗟に言ってしまった。
「お風呂と、食事だけでも。風邪ひきます」

娘の手前、これまでは浴室を使わせたことがなかった。
でも、雨の匂いと、濡れた布の冷たさと、彼の遠慮がちな笑顔が、私の理性の形を少しずつ崩していった。

着替えを用意し、脱衣室のドアを開けた。
――そこに、浴室に入っていると思っていたA君が、驚いた顔で立っていた。

時間が止まったみたいだった。
視線をどこに置けばいいか分からず、私は言葉だけを投げた。
「き、気に入らないかもしれないけれど、着替えは……」

お互いの表情が固まった数十秒。
私が逃げるように扉を閉めたとき、遅れて“見えてしまったもの”が脳裏で輪郭を持った。

そして気づく。
彼が胸の前で持っていたのは、私が帰宅して無造作に置いたままの、私の下着だった。

恥ずかしさが、熱になって背中を駆け上がった。


【第2部】触れないのに熱い──罪悪感が指先を導いた、ひとりの夜

食事を済ませたあと、私はA君を車でアパートまで送った。
雨は弱まらず、ワイパーが同じリズムで夜を削っていく。
会話はほとんどなく、沈黙だけが車内に残った。

なのに私は、運転席でずっと“左半分”が緊張していた。
身体のどこかが、ばかみたいに敏感になっていて、シートの布の摩擦すら意味を持つ。

帰宅して、ひとりになった瞬間。
恥ずかしさが遅れて押し寄せ、同時に、汗がにじむほどの火照りが体の内側から広がった。

いけない。
何度も思う。
夫と娘がいない家で、娘の家庭教師を“そういう目”で思い出すなんて。
母親として終わっている、と思うのに――止まらない。

シャワーを浴びても治まらず、私は寝室へ上がった。
自分の手が、呼吸より先に答えを知っているみたいだった。
触れてしまうと、抑えていたものが言葉を失い、体温だけで「ほしい」に変わる。

私が思い浮かべているのは夫ではない。
視界に残った青年の輪郭、雨の匂い、扉の隙間の数秒――その全部が、私の中で勝手に物語を作っていく。

“乱暴にされる自分”を想像するなんて。
自分が一番軽蔑してきたはずの発想なのに、現実の孤独と、夫の不在と、若さの匂いが重なった瞬間、私はそれに抗えなかった。

明け方まで眠れなかった。
翌日も頭がぼんやりして、仕事の最中、ふいに思い出してしまう。
友人は察してくれて昼で早退させてくれたが、私は“助かった”と思ってしまった。
ひどい。そう思いながら、家に帰ってしまった。

家の中は静かで、静けさが逆にうるさい。
シャワーの湯が落ちる音だけが、私の心の言い訳を洗い流さずに残した。

そしてまた、同じ熱が戻る。
私は怖いくらい正直だった。
触れれば触れるほど、罪悪感が薄れていく。
その代わりに、「戻れない場所へ行く」感覚だけが、甘く濃くなっていった。

どこかで眠ってしまって、目が覚めたのは夕方。
一階に気配がして、私は息を止めた。

ドアが少し開いていた。
階段を下りるたび、心臓がうるさくなる。
リビングにいたのは、A君だった。昨日借りた服を返しに来たという。合鍵のことを夫から聞いて、勝手口から入ったらしい。

――彼は、どこまで見たのだろう。
――私は、何を期待してしまっているのだろう。

その問いに答えが出る前に、夕食の時間になった。
会話は少なく、箸の音と、湯気の匂いだけがあった。

食器を洗っていると、背中に影が重なる。
気づくより先に、腕が回ってきた。
抱きすくめられて、私は声が出ない。

「なに……?」

唇がふさがれて、思考が途切れた。
拒む言葉はあったはずなのに、口に出たのはそれとは違う、弱い音だった。

「乱暴なことしないで……」


【第3部】一線を越えたあと、家は静かに息をした──若さに抱かれた夜の余韻

抱えられるようにして、私は寝室へ運ばれた。
抵抗はした。ほんとうに。
でも、身体のどこかがもうずっと前から“決まっていた”みたいに、少しずつ力を失っていく。

A君の謝罪は短く、震えていた。
「すいません……抑えようとしたのに……好きになってしまって」
言葉は拙くて、だからこそ嘘がないように聞こえた。

私は「ダメよ」と言った。
言ったのに、声は弱かった。
その瞬間、自分が恐ろしくなった。私は自分の言葉を守れない。

彼の息が近づくたび、思い出してしまう。
雨の夜に見えた“確かな若さ”。
その輪郭が、私の中の乾いた場所を見つけてしまったこと。

やがて、言葉は消え、呼吸だけが残る。
時間の感覚が薄れ、身体が熱でほどけていく。
触れられる場所よりも、触れられていない場所の方が敏感になって、私は自分を恥じる暇も失っていった。

「見ないで……お願い」
そう言いながら、私はどこかで“見てほしい”を抱えている。
それを認めたくなくて、瞼を閉じた。

彼の不器用さは、むしろ救いだった。
手慣れていないからこそ、必死さが伝わってしまう。
必死さは、私を悪い女に変えていく。

越えてはいけない一線を越えたとき、頭の中にあったはずの「家族」や「母」という札が、静かに落ちた。
代わりに残ったのは、体温と、息と、若さの重さ。
私は、長い間忘れていた“女性としての自分”を、乱暴に思い出してしまった。

そして、波が頂点へ向かう。
言葉にならない声が漏れて、私は自分を止められない。
罪悪感が消えたわけじゃない。
ただ、その一瞬だけ、罪よりも強いものが私を飲み込んだ。

夜が深くなり、二人で目を覚ましたのは日付が変わったころだった。
小さな夜食を食べ、シャワーの湯気の中で互いに目を合わせないまま、また戻っていく。

明け方まで、家は静かだった。
静かなまま、取り返しのつかないことだけが増えていった。


まとめ:雨がやんでも、私の中の音は消えない──母である前に、ひとりの女だった

あの雨の日の出来事は、偶然の皮をかぶっていました。
でも本当は、偶然じゃなかったのかもしれません。
夫の不在が続き、娘の成長が家の空気を変え、私は「母」でいることに慣れすぎて――自分が乾いていることに気づかないふりをしていました。

A君が来た夜、私は扉を閉めました。
けれど、閉めたのは扉だけで、私の中の境界は閉まりきらなかった。

いけない、と何度も思った。
それでも、身体は正直でした。
私は“選んだ”のではなく、“気づいたらそこにいた”。
そう言い訳したくなるほど、あの夜の私は弱かった。

雨はいつかやみます。
でも、雨音が消えたあとに残る静けさのほうが、ずっと怖い。
静けさは、私に問い続けるからです。

――私は、何を失って、何を取り戻したのか。
その答えが出ないまま、私は今日も台所に立ち、普通の顔で家族の食器を洗っています。
ただ、指先だけが、ときどき思い出してしまうのです。あの夜の熱と、戻れない場所の匂いを。

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