第一章|湿った夜の静脈に、白く清らかな嘘が流れ込む
夫とは、三年目の結婚生活を過ごしている。
子どもはいない。
そのぶん互いの心に丁寧に触れ合おうと思っていたし、彼もそれを望んでいるように見えた。
少なくとも──表面上は。
六月の終わり、濡れたアスファルトに街灯がぼんやり滲む雨上がりの夜だった。
私は一人、病院の自動ドアをくぐった。
夫が「軽い接触事故で救急搬送された」という連絡を受け、急ぎタクシーに乗って駆けつけたのだ。
受付の奥、ひんやりとした廊下に通されると、そこには白衣の男性が静かに佇んでいた。
50代半ば、整えられた短髪と、控えめな眼鏡。
白衣の内側から立ち昇るのは、ほのかに石鹸と杉の葉のような香り。
ただ清潔というだけではない、“男の体温”を内に秘めた気配だった。
「…奥さまですね。ご主人、意識もあり、大事には至っておりません。ご安心ください」
その声は、想像していた医師の語り口より、ずっと静かで、濡れたガーゼのように柔らかかった。
語尾にまで気を配るような、品のある声音。
私はその音に、緊張していた喉をすっと解かれたのを覚えている。
案内されたのは、急患処置室の手前にある一室。
人工の照明だけが支配するその空間は、夜の病院特有の“真空”のような静寂をまとっていた。
何かを言わなければ、という焦燥と、何も言えない、という沈黙がせめぎ合う。
「ここで少し、お休みになっても構いませんよ」
促されるままにソファへ腰を下ろすと、私の肩を包むように、白衣の裾が視界の端をかすめた。
すぐそばに座った彼──小沢院長は、私の目をまっすぐ見て言った。
「事故の前に、ご主人は…どちらにいらしたか、聞いておられますか?」
その問いに、私は一瞬だけ身体を固くした。
口元が震えそうになるのを、指先で握りしめて堪えた。
「歓迎会、だと…聞いています」
声が、自分のものではないみたいに乾いていた。
「そうですか」
彼はそれ以上何も問わなかった。
けれど、視線の奥に、どこか“察している”色が滲んだ気がした。
ふと、白衣の袖から見えた腕の筋に、私は微かに目を奪われた。
医師として鍛えられた動きのある筋肉。
優しさと厳しさが共存する、男の腕だった。
「ご無理なさらないで。…もしよければ、少し、吐き出してみませんか?」
その言葉は、医者としての配慮にしては、あまりに優しすぎた。
その“すぎる優しさ”に、女としての本能がざわめいた。
「──スマホを、見てしまったんです」
私の口からこぼれたのは、それだった。
「夫が…他の女性と、あんなやりとりをしていたなんて…」
言葉の終わりとともに、膝に置いた自分の手が、ほんの少し震えているのを感じた。
震えに気づいたのは、たぶん私よりも彼のほうが早かった。
白衣の裾がまた、ふわりと動いた。
次の瞬間、彼の指がそっと、私の手の甲に触れていた。
優しく、けれど迷いのない触れ方だった。
爪先ではなく、掌のひらで包み込むように。
まるで“何も問わずに抱きしめる”ような手だった。
私はその熱に、全身がひたりと溶けていくのを感じた。
「…こういうことって、なぜか、女のほうが深く傷つきますよね」
彼の囁きは、医者ではなく──
まるで、過去に同じ痛みを知る誰かの声のようだった。
私は見つめ返すことができず、代わりに彼の手の温度だけを頼りに、自分の輪郭を保とうとした。
だがその温度が、あまりに優しく、あまりに人肌だったために、
私の“女としての渇き”が静かに目を覚ましてしまったのだ。
呼吸が、浅くなる。
肌が、耳が、脈が──すべてが彼の存在に反応していた。
この手にもう少し、ふれてしまったら。
この静けさに、もうひとつの音を足してしまったら。
私という存在が、妻ではなく“女”として崩れていくのを、私は誰よりも理解していた。
だからこそ──指先を離せなかった。
彼の手の温度は、まるで深夜の静脈に流れ込む、白く清らかな嘘のようだった。
第二章|白衣の中、音もなく崩れた夜
指先を絡められたまま、私は目を逸らすこともできず、
ただ、彼の手の温度に心が沈んでいくのを感じていた。
「……ここでは落ち着かないですね」
小沢さんはそう言って、私を立たせると、
院長室の奥、鍵のかかった個室へとそっと誘導した。
診察や処置では使われない、医師の仮眠や思索のために用意された静謐な空間。
淡い照明と、整えられた観葉植物、閉じられた世界。
扉が閉まる音が、まるで別の世界に入ってしまったような錯覚を与える。
彼が近づく。
白衣の香り──石鹸と微かな薬剤の気配が、
まるで私の心の“奥”に直接流れ込んでくるようだった。
「触れても、いいですか」
その声に、私は唇を震わせながら、わずかにうなずいた。
答えたのは、頭ではなく、身体だった。
次の瞬間、頬にそっと添えられた手。
それだけで、喉奥がきゅっと締まり、目の奥が熱を帯びる。
女として、誰かの掌に包まれることが、これほどまでに“赦される”ように感じられるなんて──
小沢さんのくちびるが、私の額に、頬に、
そして、ためらいなく口唇にふれた。
ふれて、離れて、また重ねて。
音のない対話のように、互いの温度を確かめるような口づけ。
「……熱がある。あなたの、心に」
呟いた彼の言葉に、私は小さく笑ってしまった。
自嘲でも感謝でもなく──ただ、女として見られているという確信に震えた。
私のブラウスのボタンが、ゆっくり外されていく。
ひとつずつ、確かめるように。
そのたびに、冷たい空気と彼の視線が肌にふれる。
ブラのカップの上から撫でられると、乳房の先端がすぐに硬くなる。
私は自分の感覚の鋭さに戸惑いながらも、
そのまま背中を軽く反らして、彼の手の動きに身を委ねた。
「感じやすいんですね」
彼の言葉が喉に落ちた瞬間、
舌先が乳首を包み込んだ。
「あ……っ」
くちびるが濡れて、舌が螺旋を描きながら吸い上げてくる。
甘く痺れる感覚が、胸から下腹部へと一気に流れていく。
スカートの中に手が入ったとき、
私は自分で両膝を開いていた。
ショーツ越しに触れられると、
そこはすでに濡れていて、柔らかく熱を持っていた。
彼の指がゆっくりと、
布地の端をめくるように、私の秘めた部分に触れた。
指先が、そこをゆっくりなぞる。
縦に、円を描くように、そして時折、
入口の内側へ少しだけ探るように。
「こんなに……濡れて」
囁かれるたびに、私の中の羞恥と快楽が溶け合っていく。
足がわずかに震え、腰が引き寄せられるように動く。
中指が静かに、私の中に入った瞬間──
「んっ……!」
喉の奥から零れた声を、私は思わず自分の手で塞いだ。
けれど、彼の指は止まらない。
二本目が入ったとき、
奥が擦られ、甘い痺れが尾てい骨まで駆け抜けた。
「気持ちいい?」
私は、声にできないまま、首を振って──そして縦に、振り直した。
白衣が脱がされ、シャツがはだけ、
彼の身体が私の脚の間に沈み込んでくる。
太ももが大きく開かれ、
その間に、彼の熱が入り込む。
硬く、確かで、
でも優しい圧で、私の奥へと押し入ってきた。
「……っあ……ぁ……」
一度満たされるたびに、
過去の傷が奥から剥がれていくような感覚があった。
音が、空間に響く。
濡れた粘膜が絡み合う、生々しい音。
けれどその音すら、愛しくて、切なくて、
私の官能の奥を掻き立てた。
「全部、あなたに入ってる……感じる?」
私は涙を滲ませながら、
彼の背に爪を立てた。
最後の波が押し寄せるように──
全身が痙攣するように弾け、
私は果てた。
白衣の中、音もなく、
私は完全に“女”として、崩れ落ちた。
第三章|白い朝、崩れたままの私で
「すこし、眠りますか?」
彼の腕の中で囁かれたその声は、
まるで微熱の残る夜風のようだった。
白衣は私の背にかけられていて、
その下にはもう、ブラウスも、ショーツも戻っていない。
濡れて熱を帯びた私の身体は、彼の胸元に静かに寄り添っていた。
触れ合った脚と脚の間に、彼の余韻が、
わたしの“奥”の深いところにまで、まだ温かく残っていた。
時折、内腿を滑るその名残りが、
まるで「もう戻れない」と私に告げているようだった。
朝の病院は、別の世界だった。
交代する看護師たちの声、
淡々と開く電子カルテの音、
それらのすべてが、
あの夜の静寂とは無縁の現実に思えた。
私だけが、時間の奥に取り残されたまま。
どこか身体が、自分のものじゃないような──
でも、それが心地いい感覚でもあった。
院長室のソファで服を整えながら、
私は自分の太ももに目を落とした。
爪の跡。
彼の手の跡。
私の指がつけた、知らない女の傷痕。
それらが、どこか美しく思えた。
朝焼けに濡れたガラス越しに、
夫からのメッセージがスマホに届く。
《心配かけてごめん。身体はもう大丈夫。》
嘘をついた人間の言葉は、
どこか、真実だけでできている。
だから私も、
同じように、嘘を真実のように装って、
夫の元へ帰ることにした。
マンションの寝室。
ベッドでは、夫が穏やかな寝息を立てていた。
隣に腰かけた私は、
ゆっくりと寝具の中に脚を滑り込ませる。
その瞬間──
“あの夜”の記憶が、
まるで私の肌に触れてくるかのように、
背筋から首筋まで、ゆっくりと這い上がってきた。
奥の奥まで満たされた感触、
押し寄せては痙攣するような悦びの波、
誰にも見せたことのない顔を、
あの人にだけ見せてしまったという事実。
私は、もう元には戻れない。
夫の隣に寝ながら、
私は別の男の腕の中で、
今もなお濡れ続けている自分を知っていた。
“抱かれたこと”は、洗っても落ちない。
香りのように、脈打つように、
肌と心に染みついていた。
それは、罪ではなかった。
救済でも、なかった。
ただ、私が“女である”ということを、
誰よりも鮮やかに思い出させてくれた出来事だった。
夫の寝顔を見つめながら、
私はそっと目を閉じた。
──わたしはもう、崩れたままで、生きていく。
静かに、誰にも知られずに。
ただ、“女”という感覚だけを密かに抱えて。
その温度を、誰にも渡さずに。
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