【第1部】沈黙のなかで濡れる──上司の視線と夫の寝息の間に
その夜、私は少しだけ、化粧を丁寧にした。
夫に言われたわけじゃない。誰のためでもなく、ただ無意識に、鏡の中の自分を整えたくなっただけ。
夫の勤める会社の上司──岩代部長の接待を兼ねた、ささやかな飲み会。
場所は夫が用意した温泉付きの旅館。古いけれど、静かで、空気が澄んでいて……何より、誰にも見られない。
「……お酌してあげなよ、せっかく来てもらったんだから」
夫の言葉に、私は盃を持って部長の隣に座る。
すぐ横で夫が笑っている。笑いながら、酒に潰れていくのが見えた。
その間、部長の視線だけがずっと私の横顔に触れていた。
話していない。けれど、飲むたび、置かれる盃の音、指の湿った感触、その静かな圧が喉元を伝って、胸の奥に沈んでいく。
「きみが奥さんか……なるほど、会社の話より楽しいな」
言葉は軽い。けれど、その声音のなかには、どこか、手のひらのような湿度があった。
それに気づいた瞬間から、私は目の奥が熱くなっていた。
──何もされていない。
触れられてもいない。
ただ、夫の寝息が隣で静かに鳴っている。そのすぐ横で、部長の指が、コップの縁をなぞっていた。
なのに私は、脚を閉じたまま、膝の内側が熱くなっていくのを止められなかった。
「寒いか?」
そう問われただけで、背中がぴんと伸びた。寒くなんてないのに、身体が震えた。
その視線のまま、沈黙のまま、時間が滴ってゆく。
コップの水が、少しずつ、身体の奥へと染みていくように。
私はもう──
“まだ触れられていないうちから、濡れていた”。
【第2部】唇と喉の間に溺れる──許されぬ快楽の沈み方
部屋に戻ると、夫はすぐに畳に沈み込んだ。
顔を赤くして、寝息を立てている。何も知らずに。
私はその足元に、膝を折って座った。
気づけば、部長もすぐ後ろにいた。音もなく、私の部屋に入っていた。
「……やめましょう」
声は出せた。でも、目はそらせなかった。
自分でも驚くほど、声が震えていなかった。
「本当に、やめたほうがいいと思うか?」
その言葉が耳にかすめた瞬間、喉の奥がずくんと疼いた。
部屋の照明は暗く、夫の寝息が規則的に響いている。
なのに、部長の手が私の髪に触れたとき、世界がくずれるように音を立てた。
ひとさし指が、唇に触れた。
それだけで、腰の奥が疼いた。
抗えば抗うほど、喉が欲しがっていた。
「だめです……ここ、だめ……」
でも、腰が引けなかった。唇を塞がれたとき、私はもう何も考えられなかった。
──夫の隣で、
──部長の指が、舌に触れる。
音を立てられない。けれど、肌は震えていた。
脚を閉じたまま、喉の奥にまで欲望が沈んでゆく。
下着のなか、ぬるりとした感覚が生まれる。
部長の指は、背中を撫でるようにして、そっと腰に沈んだ。
視線を逸らせなかった。
むしろ、見てほしかった。
この羞恥が、快楽に溶けていくところを──
脚を閉じたまま、私は彼の喉に舌を絡めていた。
「だめなのに、こんなに……」
罪と悦びが、粘膜に溺れていった。
【第3部】壊れていく吐息──名前を呼ばれただけで濡れていた夜
「……〇〇さん」
名前を、囁くように呼ばれた瞬間、身体がびくんと反応した。
夫の名ではない。
違う男の声が、耳の奥に沈んで、子宮のあたりまで濡れを連れてくる。
腰が震えていた。
それを見て、部長の手がぐっと私を押し倒す。
畳の冷たさと、彼の熱が交差する。
「全部……ひらいてるよ」
その一言で、頭が真っ白になった。
──もう戻れない。
──身体の奥で、何かがほどけてしまった。
唇、舌、脚の内側。
どこを撫でられても、私は“もう差し出している”感覚に溺れていった。
愛撫でも、挿入でもない。
ただ、その目線で壊れていく。
視線の先にいるだけで、私はすべてを奪われていった。
「きみは、ここで濡れる女なんだよ」
そう言われて、私ははじめて、泣いた。
悲しくてではない。
うれしくてでもない。
ただ、ようやく“誰かに見抜かれてしまった”ことが、心の奥を溶かしていった。
そして──
あのとき、たしかに名前を呼ばれただけで、私は濡れていた。
呼吸が止まる。
頭が真っ白になる。
でも、残響だけが残る。肌に、喉に、脚の奥に。
終わっても、終われなかった。
壊れてしまった快楽だけが、静かに、畳に染みていた。



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