【第1部】匂いが伝えてしまった──夕餉前、女は肌を磨いた
夫の出張が決まった日から、私はどこか落ち着かなくなっていた。
──今さら、誰のために?
そう思いながら、気づけば鏡の前で自分の肌を確認していた。頬の艶、首筋の匂い、下着の色。誰かに見せる予定など、なかったはずなのに。
けれど彼が、子供を遊園地に連れて行ってくれたと聞いた瞬間、胸の奥で何かがそっと震えた。うちの子と、彼の子。子供たちに罪はない。そう自分に言い聞かせながら、私はゆっくりと湯を張った。
湯気の向こうで、ひとりの人妻が、いつもより丁寧に、肌を洗っていた。
白いレースの下着を纏ったのは、ただの偶然だった、と言い逃れるには苦しい。ほんの少し、肩紐が落ちやすいのも知っていた。知られたいわけではない。ただ──感じてほしかった。生きた女であることを。
夕方、彼が子供を連れて訪れた時、私のなかで何かがはっきりと変わった。
「助かります、本当に……」
そう言いながら台所に立つ私を、彼が見る視線が、空気を震わせた。後から聞いた話だが、私の動き──指先の湿り気や、首筋の張り詰めた温度から、女としての匂いが立ちのぼっていたらしい。
「……何か、今日は違いました」
彼の言葉は後になって聞いたのに、不思議とその夜の空気は、もうすでに湿っていた。
私の身体が、なぜか期待で疼いていたのは、彼の目が──まだ触れもしない彼の目が、わたしを濡らしていたからだった。
【第2部】「そんな目で見るから」──ソファのきしみが始まりの音になった
子供たちが寝静まったあとのリビングは、不自然なほど静かだった。
ソファに腰かけ、彼は「そろそろ失礼します」と言いかけて、私の視線とぶつかった。何も言えなくなったのは、たぶん私のほうが先だった。
「……そんな目で見るから」
震える声でそう言ったのは、私だった。言ってしまった瞬間、自分の身体の奥が、ひとつの答えを出していた。
彼の手が、ゆっくりと私の髪を撫でたとき、首筋から背中にかけて小さな火が灯った。それはすぐに舌へと変わり、鎖骨のあたりを這っていく。
──私は、濡れていた。
まだ何もされていないのに。下着の中が、ふわりと熱を帯び、唇より先にそこが濡れていた。
「こんなに、なんで……」
彼がつぶやいた。わたしは目を伏せたまま、答えなかった。ただ、シャツのボタンをひとつ、彼の指に委ねた。
ソファに押し倒された瞬間、頭の中が真っ白になった。けれど、身体は正直だった。口では「ダメ」と言いながら、腰が勝手に反り返った。
──もう、なにも要らなかった。
挿れられた瞬間、奥の奥までふるえて、何かが溢れた。快楽ではない、赦しだった。長い間、夫にも他人にも触れられていなかった女の心が、静かに崩れていく音だった。
彼の中に満たされるたび、空っぽだった自分に温度が戻っていった。
【第3部】肌の記憶に犯されて──罪と悦びの余韻が残る夜
彼と肌を重ねたあと、私はリビングの床で静かに横たわっていた。
汗と吐息と、彼の腕の匂いが絡まり合って、世界は静かに震えていた。もう声も出なかった。ただ、身体がまだ余韻の中でぴくりと震えていた。
「飽きないよ、知恵さんの肌に触れると……勃ってしまうんだ」
彼のその言葉は、私の喉の奥に沈んでいった。涙が滲んだのは、嬉しさと、罪悪感と、解放と、すべてが一度に押し寄せたからだった。
「ずっと……こんなに感じたことなかった」
そう言った自分の声が、少しだけ震えていた。けれど、そこに後悔はなかった。むしろ、赦されたような、温かさがあった。
夫にも、彼の妻にも、子供たちにも──確かに罪はある。けれど、私は今、生きていると感じていた。
「また、来てもいい……?」
彼の問いに、私は頷いた。言葉ではなく、濡れた肌が答えていた。
それから何度も、彼と私は重なった。体位が変わっても、触れ方が変わっても、毎回、彼の中で達してしまう私は、もう“知恵”ではなく、ただの“女”だった。
──あの日、あの時、夕飯の前に湯を張ったこと。
その瞬間から、すべては始まっていた。
私の肌が欲しかったのではない。彼の視線に、許されることが、欲しかった。
罪ではなく、快楽でもなく、ただ女として。
わたしは今も、彼に抱かれるたび、過去の自分を洗い流している。



コメント