第一章:筋肉を解す指先に、心まで攫われて
私は今、某有名大学の陸上部で長距離を走っている。
全国大会常連、いわば“勝ち続けるチーム”の中で、自分の身体と記録を武器に生きてきた。
だからこそ、疲労の蓄積にも無頓着だったのかもしれない。
春合宿の前、腰に鋭い痛みを感じた。
トレーナーから紹介された「出張整体師」が、私のアパートに訪れたのは、その翌日のことだった。
「こんにちは。川島です。緊張しなくて大丈夫ですよ」
ドアの向こうに立っていたのは、40代半ばだろうか。控えめな黒シャツに、よく手入れされた指先。
彼は、私の母が再婚を考えている相手でもあった──その事実が、微かなざわめきを私の胸に広げた。
「陸上部って、身体の声を無視することが強さみたいになってるから」
淡々と、でもやさしく語りながら、彼は私の背を床に押し当てた。
薄いシャツの上からでも伝わる手の温度。
肩甲骨の内側にゆっくりと指を滑らせ、骨のキワを沿って動くと、呼吸が一瞬だけ止まった。
「痛み、そこじゃない?」
「……はい」
「けど、心が痛いのは、別の場所かもしれないね」
言葉の意味に戸惑った。でも、不思議と怒りは湧かなかった。
むしろ、何かを見抜かれてしまった気がして、私は黙って目を閉じた。
第二章:罪悪感と欲望の、隙間に落ちた夜
彼の施術はそれきりになるはずだった。
だが、母との関係が進むほど、私の中にざわつきが残った。
罪悪感ではなく、もっと湿った衝動だった。
「また来てくれませんか、お願い」
そのメッセージを送ったのは、合宿から戻った夜だった。
すぐに返信が来た。「今夜でもいい?」
その夜、私はジャージのままベッドに横たわった。
彼は部屋の電気を落とし、間接照明の下で私の太ももを触診するように撫でた。
骨盤のきわ、内転筋、臀部……。
「ここ、相当張ってるね。痛い?」
「……気持ちいい、です」
不意に、彼の指が止まり、呼吸だけが部屋に残った。
私がゆっくりと脚を緩めると、彼の手が太ももの内側へと深く入り込んだ。
そして──シャツの裾をめくり、脇腹を包み込むように手を滑らせてきた。
「このまま、してもいい?」
私は頷いた。誰の許可もいらない。ただ、身体が、心が、欲しかった。
キスはなかった。ただ背後から腕が伸び、胸元を包み込んだ。
汗ばんだ肌が、彼の手の温度でさらに湿っていく。
ジャージをゆっくりと下ろされる感触に、私は自分の鼓動が耳まで響いているのを感じた。
骨盤に沿って唇が下りていき、脚の間に、熱が流れ込んでくる。
彼の舌が触れた瞬間、全身が震えた。
誰にも見せたことのないほど、私は乱れていた。
第三章:交差点の真ん中で、私は立ち止まる
終わったあと、私はずっと天井を見ていた。
彼の指先がまだ肌に残っている気がして、脚を閉じることができなかった。
「母とは、どういう関係なんですか?」
静かに、でも投げるように聞いた私に、彼は短く言った。
「“誰か”として見てくれている人。でも、今、君は……“女”として俺の手の中にいた」
吐き気がしたわけではなかった。
ただ、背中のどこかで、私のなかの何かが崩れて、別の形になった音がした。
私は陸上を続ける。
でも、もう“逃げるように走る”ことはしない。
走るだけでは、届かない場所がある。
触れられることでしか、知れない自分がいる。
その夜、私は初めて「止まる」ことを選んだ。
それは、敗北ではなく、再生だった。



コメント