【第一章】
沈黙の十年、再会は雨の横浜で――夫のいない夜にだけ、戻る私の素肌
三十七歳、私は“主婦”という肩書に身体を預けるようにして生きている。
東京・世田谷の一軒家。夫は商社勤務で多忙を極め、息子は来年で九歳になる。
朝の光の中でお弁当を詰め、夕飯の買い出しにスーパーを回り、義母の愚痴を受け流しながら洗濯物を干す――そんな毎日を、私は「平穏」と呼んでいた。
けれど、ある日。
スマートフォンの画面に浮かび上がった「高橋涼」の名前が、私の胸の奥で眠っていた鼓動を叩き起こした。
彼は十年前の恋人。
大学四年の春、急な海外赴任が決まり、別れた男。私は就職、彼はロンドンへ。空港のガラス越しに泣いたあの日以来、一度も連絡は取っていなかった。
「久しぶり。今、横浜に帰ってきてるんだ。少しだけ、会えない?」
息子は実家に預けていた。
夫は出張で、三日間不在。
その偶然が、あまりにうまく噛み合っていたことに、私は気づかないふりをした。
横浜・馬車道。濡れた石畳を踏みしめながら、私のヒールの音が夜の静けさを割る。
小さなバーのドアを開けると、彼がいた。
グラスを傾けながら私に気づき、ふっと笑ったその目の奥に、あの頃の熱が宿っていた。
「変わらないね、由美子」
「ううん、変わったよ。もう母親だし」
「それでも、綺麗だ」
その一言が、喉の奥を甘く締めつける。
グラスの氷が静かに溶けていく音に重なるように、私の中の何かが、じわじわと溶けていった。
【第二章】
指先ひとつで、十年分の私がほどけてゆく――“帰れない場所”に、自ら足を踏み入れて
「もう少しだけ、話したい」
「…だめだよ、私、人妻なんだよ」
そう言いながらも、私の指は、無意識のうちにタクシーのドアハンドルに触れていた。
止めてくれる言葉を、どこかで待っていたのに――彼の瞳は、静かにすべてを許していた。
私の足元だけが、もう二度と戻れない道を歩き始めていた。
横浜の夜に灯る、古びたホテルの非常灯。
廊下に漂う静けさすら、背徳を艶めかせる装飾に思えた。
部屋に入ると、柔らかな灯りがカーテン越しに揺れて、私の肌を静かに照らした。
雨の香りを帯びた湿った空気。
その空間すべてが、私の“女”という存在を呼び覚ましていた。
彼の手が、そっと私の腰に触れた。
それだけで、喉の奥が焼けるように乾き、脚がかすかに震えた。
コートを脱がされる音が、まるで古い殻が剥がれていくように静かに響いた。
「まだ、こんなに綺麗なんだな」
耳元で低く囁かれたその声は、私の中の理性を一瞬で溶かしていった。
ブラウスのボタンが外され、キャミソール越しに乳房が浮かび上がる。
それに唇を寄せる彼。
舌先が布地越しに乳首を捉え、そこに熱がこもる。
私は目を閉じて、呼吸を整えようとしたけれど――彼の指が、スカートの内側へと静かに滑り込んできた。
「……っ、やだ……そんなとこ……」
かすれた声が漏れる。けれど、本当は望んでいた。
否定の言葉が震えていたのは、羞恥ではなく、欲望の波がすでに腰を支配していたから。
タイツをゆっくりと下ろされ、ショーツごと太ももまで降ろされたとき、私は片手で顔を隠した。
でももう、彼の舌が、私のもっとも繊細な部分をなぞっていた。
「やめて…やめてってば……そんなの……」
言葉とは裏腹に、私の腰は無意識に彼の口元へと近づいていた。
震える舌が、花びらのひだを丁寧に舐め開く。
時折、中心を軽く吸われ、舌先で円を描かれるたび、内腿が痙攣するように震えた。
頭の奥がしびれるように熱くなる。
指先がカーテンを握りしめ、声にならない甘い声が喉で弾けた。
やがて、私の手が彼の頭を抱え、自然と腰を押しつけていた。
何度も波が押し寄せるような快楽のうねりに翻弄され、私はしばらく言葉を失っていた。
そして今度は、私の番だった。
ベッドに座る彼の前に膝をつき、私はそっとその膨らみに触れた。
ズボンの布越しにすでに脈打っている熱を、手のひらで感じる。
ファスナーを下ろす音が、空気を裂くように艶やかに響いた。
彼のそこに顔を寄せると、かすかな石鹸の香りと彼だけの匂いが混ざって、喉の奥が熱くなる。
ゆっくりと唇を滑らせ、先端を舌先でなぞると、彼の身体がわずかに震えた。
「……由美子……そんなにうまかったっけ……」
「忘れたの? 私、あなたに全部、教えられたのよ」
口いっぱいに含んで、頬を使って吸い上げる。
舌を巻きつけ、奥をくすぐるように蠢かせると、彼の呼吸が荒くなるのがわかった。
その様子に、女としての悦びが湧き上がる。
私は確かに、いま、“思い出されている”のだ。
ベッドに引き寄せられ、彼の身体が再び私の上に重なった。
脚を大きく開かれ、彼の熱が私の入口をやさしく探る。
ぬるんとした感触が交わるたび、内側の襞が彼を迎え入れるように収縮していく。
「お願い、もう……我慢できない……」
懇願するような声が自然に漏れた。
そして彼が、私の奥に深く沈んできたとき――
視界が霞んだ。
十年ぶりの熱。
忘れかけていた感覚。
彼としか分かち合えなかった、身体の奥の奥で交わる快感。
正常位で抱かれながら、私は彼の首に腕を絡めた。
熱いキスと、揺れる腰と、溢れる水音。
それが私のすべてを浸してゆく。
彼が私を後ろから抱くとき、私は無防備な姿で枕に額を押しつけながら、何度も彼の名前を呼んでいた。
背中に押しあてられる彼の手が、まるで帰るべき場所を示すように私を導く。
騎乗位で彼の上に跨がったとき、私はもう、誰でもない“私”になっていた。
女としての官能を、すべて解き放ちながら、目を閉じ、腰をくねらせる。
深く沈んでゆきながら、快楽の波を自ら操るように。
そして、最奥に達した瞬間――
胸の奥が爆ぜた。
身体が跳ね、視界が白く染まり、喘ぎと涙と歓喜が、同時にこみ上げた。
「……っ、あ……もう……だめ……」
彼に抱きしめられながら、私は波のように震え、何度も絶頂を迎えた。
その夜、私は、何度も女になり、そして何度も“由美子”として生まれ変わった。
【第三章】
快楽の果て、目覚めた私――女としての輪郭が、夜明けの静寂に浮かび上がる
カーテンの隙間から、かすかに朝の光が差し込んでいた。
目を開けた瞬間、天井の模様がかすんで見えたのは、涙の名残か、それとも熱の余韻か――わからなかった。
彼の腕の中に、私はいた。
額を彼の胸に押し当てるようにして、肩で呼吸をしながら、ただ静かに身体の中に残る彼を感じていた。
夜の間、私は幾度となく絶頂を超えた。
そしてそのたびに、妻でも母でもなく、一人の“女”として、自分自身の身体に目覚めていった。
「ねぇ……」
私は囁くように言った。
「私、いま何度目の朝を迎えたのかな。あなたとこうして……」
彼は黙って、私の背中をなぞるように撫でた。
その指先の優しさが、また涙腺をゆるませる。
シャワーの音もないまま、シーツの中で彼が私の身体をそっと抱き寄せる。
脚と脚が絡まり合い、温もりと吐息だけが部屋を満たしてゆく。
「まだ濡れてる……」
彼が私の太腿に指を這わせると、恥ずかしいくらいに身体が応えていた。
さっきまで何度も満たされたはずの奥が、再び疼いてくる。
唇を交わしながら、私たちは言葉を超えて重なっていく。
まるで、お互いの輪郭を塗り替え合うように。
今度は彼が、私の身体を後ろから包み込むようにして、ゆっくりと腰を押し当ててきた。
背中に感じる彼の息が、耳朶をなぞり、肩に落ちていく。
「まだ、欲しいの?」
「……うん……もっと、あなたの奥に溺れたい……」
彼の熱が、私の中にまたゆっくりと沈み込んでくる。
まるで、深い湖に身を沈めるような静かな快楽。
一度濡れた花弁は、優しく開きながら、すべてを迎え入れていた。
そこから先は、もはや時間ではなく、感覚の世界だった。
押し寄せる波がゆっくりと身体を飲み込んでいき、ひとつ、またひとつと音を立てて私を満たしてゆく。
ゆっくりと、深く、そして何度も。
後ろから与えられる快感に、私は背を反らせながら、身体の奥で蠢くものを確かめるように喘いでいた。
「……お願い、最後まで、壊して……」
そう口にしたとき、私は自分の“殻”を自ら砕いていた。
彼の動きが荒くなり、私の腰を押さえる手に力がこもる。
絶頂は、静かに、でも確かに訪れた。
奥を突かれるたびに身体が跳ね、脚が震え、シーツに爪が食い込む。
身体中に熱が駆け巡り、最深部で彼を受け止めた瞬間、私は果てた。
果てながら、彼の名前を、誰にも聞かせたことのない声で叫んだ。
**
しばらくの静けさの中、私は天井を見つめていた。
もう、あの頃の私には戻れない。
だけど――
いまの私には、輪郭がある。
女としての匂い、熱、震え、悦び。
それが、私を私に戻してくれた。
服を着ながら、鏡に映る自分と目が合った。
頬が赤く、唇はわずかに腫れている。
けれど、その目は、十年ぶりに光を帯びていた。
「ありがとう……」
私は声に出さずに呟いた。
彼に? 自分に?
そのどちらでもあり、どちらでもない気がした。
この夜を、私は誰にも話さない。
けれど、生きていく中でふと肌寒くなったとき、この夜の熱を思い出すだろう。
そしてきっと、私は微笑む。
「私、女だったんだよ」――そう、胸の奥で。



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