第一章:「夫婦」という衣の下で、私がほどけていく夜
私たち夫婦は、長い沈黙のあとにふと口をきくような、そんな関係になっていた。
結婚二十年。
子どもはすでに独立し、家の中は静かすぎるほど静かで、まるで“目的を終えた機械”のように、ただ時間だけが回っていた。
「……温泉でも行こうか」
ぽつりと夫が言ったのは、そんなある夜の夕食後。
テレビから流れるバラエティの音の裏で、その言葉だけがやけに生々しく耳に残った。
「混浴、だって」
予約した宿の情報をスマホで見せながら、夫が目尻を緩める。
その笑い方に、懐かしい“男の顔”を見た気がして、私は思わず目を逸らした。
——混浴。
その言葉が、頭のどこかでゆっくりと熱を持ち始める。
私の体は、若くはない。
胸も控えめだし、年齢とともに張りを失った肌は、露天の光にさらせるような自信はない。
けれど、だからこそ。
人目に晒されることへの羞恥と、女としての自意識が、眠っていた部分をじんわりと刺激し始めた。
「ねえ、本当に混浴なんて…大丈夫かな?」
小声で夫に尋ねると、彼は笑ってこう言った。
「大丈夫。湯けむりが隠してくれる。……でも、もしかしたら誰かに、気づかれるかもな」
わざとらしく含みをもたせたその言葉に、ぞくりと背筋が震えた。
——見られるかもしれない。
けれど、それでも彼とふたりで、湯の中に溶けていく時間を持てるなら。
私はその夜、クローゼットの奥から、一度も使ったことのない“湯浴み着”を取り出して、そっと旅のカバンに忍ばせた。
それを選ぶ指先が、いつになく熱かった。
第二章:湯けむりの中で、知られたくない私が、溶けていく
山の中腹に佇むその宿は、街の光から遠く離れ、夜になると星と虫の音だけが空を満たしていた。
チェックインを終えて、客室に荷物を置くと、夫が言った。
「……先に、行こうか。ふたりで」
「今すぐ?」
「今だから、いいんだよ。たぶん誰もいない」
私は頷きながらも、足が少しだけすくんだ。
湯浴み着の上から薄い浴衣を羽織り、下駄の音を抑えるように歩いた。
宿の奥に伸びる木造の渡り廊下。雨上がりの木がしっとりと香り、肌に触れる夜風に、すでに心がほどけていくのを感じていた。
──湯けむりが、白く流れていた。
露天風呂の入り口に立った瞬間、視界がふわりと白く染まり、空気が湯の匂いに変わった。
見上げると、岩に囲まれた広い湯船。杉の木が湯気に滲み、天井のない夜空に星が散らばっている。
「先に入ってるよ」
そう言って夫が湯船に身体を沈めた瞬間、じわ、と湯が波打つ。
私は少し間を置いて、その背を追いかけた。
湯浴み着のまま、そっと湯の中に膝を滑らせる。
熱すぎないお湯が太腿をなぞり、布越しに肌を撫でていく。
まるで、それ自体が生き物のように、私の内側を探る。
夫の隣に並び、肩を並べたとき。
「……きれいだよ」
その小さな一言が、思った以上に深く突き刺さった。
「やめて、こういう場所で…」
思わず横を向くと、夫の指が湯の中で私の手を探し当て、からめ取ってくる。
湯気が視界を曇らせ、ほとんど顔が見えない。その曖昧さが、逆に心をほどいてしまう。
「ねぇ、誰か来たらどうするの…?」
囁いた瞬間。岩の向こうに、かすかに“人影”が見えた。
ぼんやりと輪郭だけ浮かぶ、それが男の姿なのか、幻なのか。
でも、確かに「誰かがそこにいる」気配だけが、皮膚にざわめくように伝わってくる。
夫の指が、私の腰のあたりを撫で始める。
湯浴み着越しに触れられたその場所は、じわりと温かく、内側から脈を打ち始めていた。
気づけば、呼吸が熱を持ち、胸の先が湯の中で密かに硬くなっていく。
指先がわずかに震えるのは、恥ずかしさか、それとも高まりの証か。
「ほら、誰か見てるかもな……そんな顔、見せてるなんて」
夫の言葉に、ぞくっと背筋が震える。
私はとっさに顔を伏せ、手で胸元を押さえた。
けれど、もう遅い。
この場所にいる私は、「見られたい私」だった。
本当は、気づかれたくて。
誰かの視線のなかで、女である自分を再確認したかった。
私はゆっくりと夫に寄り添い、湯の中でそっと脚を組み替えた。
お湯が揺れて、股間の布地がふわりと浮き、ぴたりと肌に貼りつく。
そこには、もう言葉ではなく、熱と湿度と、肉体のリズムだけがあった。
「……もっと近くで見られたら、どうする?」
夫の声が湯気の中でほどけていく。
私は答えずに、小さく頷いた。
それだけで、今夜の私がどれほど濡れているか、伝わった気がした。
第三章:抱かれて、ほどけて、私は「女」に戻る
宿の部屋に戻ったとき、私はまだ、湯の匂いをまとっていた。
湯気の中で密かに交わされたあの手と指の記憶が、脚の奥に、まだじんわりと残っている。
浴衣の内側の太ももが、じっとりと濡れていた。
私は鏡の前に立ち、結んだ帯を解く。
ふわりと肩から滑り落ちる生地。
濡れた湯浴み着を脱ぐと、そこには、さっきまで湯の中で見られたかもしれない「私の身体」があった。
痩せた鎖骨、うっすら浮かぶ肋骨、少し垂れかけた胸、そして……
男たちが一瞥で女だと気づく、柔らかな腰と丸みを帯びた尻。
「……こんな身体、もう見せられないって、思ってたのに」
知らず知らずのうちに声が漏れた。
ベッドに腰かけていた夫が、そっと立ち上がり、私の背後に回る。
鏡越しに目が合うと、その瞳には熱があった。
若い頃、まだ夫と恋人だった頃の、獲物を狙うようなあの視線。
「見せてくれて、ありがとう。……すごく綺麗だった」
私は思わず、唇を噛んだ。
「やめてよ、こんな歳で…」
そう言おうとした瞬間、夫の手が、私の裸の背中にそっと触れる。
指先が、骨のラインをゆっくりなぞる。
肩甲骨から背骨へ、そして腰のくびれに沿って──
湯の中よりもずっと濃密な愛撫が、肌に「私」という感覚を呼び戻していく。
夫の唇が、首筋に触れた瞬間。
私は鏡の中で、久しぶりに「女の顔をした自分」を見た。
「ねえ、電気……消さなくていいの?」
私の問いに、夫はただ小さく首を振った。
「見せてほしい。誰かじゃなくて、俺に。……お前が、感じてる顔」
私は目を閉じた。
そのまま、夫の手に導かれるまま、ベッドへと身体を横たえる。
シーツの冷たさが背中に触れた瞬間、胸の先がひときわ敏感に硬くなる。
夫の舌が、そこに触れたとき──私は声を飲んだ。
ゆっくり、丁寧に、溺れるように舌が動く。
焦らすように、愛しむように、まるで私の存在そのものを記憶しようとするかのように。
そして、指が脚の奥に触れたとき──そこは、すでに濡れていた。
湯のぬくもりとは違う、私の奥からあふれた体温。
夫の指がそれをすくい上げるたびに、快楽の波がゆっくりと広がっていく。
私の身体が今、ひとつずつほどけていく。
恥じらい、諦め、加齢へのコンプレックス──
それらを夫の手が、唇が、舌が、ひとつひとつとかき消していく。
そして、奥へ。
つながる瞬間、私は短く息を吐き、目尻に熱が滲んだ。
「気持ちいい……」
それは快楽だけの言葉じゃなかった。
私という存在が、「ここにいていい」と思えた瞬間の、魂の震えだった。
夫の動きに合わせて、身体が深く波打ち始める。
肌と肌がこすれるたびに、愛されている実感が深まっていく。
そして私は、彼の中で熱くなり、ひとつの波にのまれていった。
目の奥が白く弾け、喉が震え、身体の芯がゆっくりとほどけていく。
——何年ぶりだろう。
こんなふうに、誰かの中で果てたのは。
終わったあと、私はベッドの中で小さく丸まりながら、夫の胸元に顔を埋めた。
静かな部屋。
露天風呂で感じたスリルの残り香が、身体の奥にじんわりと漂っている。
私は、あの湯けむりの中で、見られたことによって、
忘れかけていた「女という感覚」を取り戻したのだ。
きっと、もう一度恋ができる。
相手が、この人でよかったと思えた夜だった。
「ありがとう」
小さな声でそう呟くと、夫が抱きしめ返してくれた。
その腕の中で、私はようやく、自分を赦せた気がした。


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