夜の静寂に交わる契約
私は 桜井美和。生保レディとして、日々多くの顧客と向き合いながら仕事に励んでいる。営業という仕事柄、人と接する機会は多いが、ある日、思いがけない再会が私を待っていた。
その日、訪れたのは新規契約を希望する若い顧客のもと。応接室の扉を開けると、そこにいたのは見覚えのある青年だった。
「……え?」
目が合った瞬間、時間が止まったかのような錯覚に陥る。彼は 藤原翔太——息子の中学時代からの親友であり、同級生の間でも常に注目を浴び、もてはやされていた青年だった。
「桜井さん……?」
彼も驚いたように私を見つめていた。大学卒業後、大手企業に就職し、社会人としての道を歩み始めた彼が、こうして契約の相談を持ちかけてくるとは思いもしなかった。
「まさか、翔太くんだったなんて……。お久しぶりね。」
私は微笑みながら、静かに席に座る。彼も少し緊張したように息をつきながら、向かいの席についた。
予期せぬ誘い
契約内容の説明が終わる頃には、すっかり昔話に花が咲いていた。彼は学生時代の話を懐かしそうに語りながら、時折私を見つめる。
「桜井さんって、昔から変わらないですね。綺麗で、落ち着いていて……。」
不意に投げかけられた言葉に、心がわずかにざわめく。
「そんなことないわよ。年齢を重ねると、それなりにね。」
私は軽く笑って返したが、彼の視線にはどこか真剣なものがあった。
「……この後、お時間ありますか?」
その問いに、一瞬戸惑った。仕事が終わった後の予定はなかったが、まさかこんなふうに誘われるとは。
「ええ、特に予定はないけれど……?」
「じゃあ、少しお話しませんか?近くに、いいバーがあるんです。」
彼の誘いに、私は静かに頷いた。
バーで交わる視線
重厚な木製の扉を押し開けると、ほの暗い照明のバーが広がった。ジャズが静かに流れ、奥のカウンター席へと導かれる。
「ここ、雰囲気いいですね。」
翔太くんは少し緊張したように笑いながら、私の向かいに座った。グラスに注がれた琥珀色の液体が揺れるたびに、店内の柔らかな光が反射し、幻想的な雰囲気を作り出していた。
「こういうお店、来るんですか?」
「たまにね。でも、こんなふうに誰かと来るのは久しぶりかもしれない。」
私はグラスを傾けながら微笑む。彼の視線がふと私の胸元に落ちるのを感じた。カクテルドレスのシルエットに沿って、ふとした拍子にスリットの開いた襟元から肌が覗く。
「……あっ。」
彼の目が、明らかに一瞬動揺する。慌てて視線をそらす仕草が、かえって微笑ましかった。
「どうしたの?」
わざと何も気づかないふりをしながら問いかけると、翔太くんは顔を赤らめながら、グラスの中の氷を弄ぶ。
「いや、なんでも……ないです。」
その表情がどこか初々しく、私は胸の奥でくすぶっていたものがくすぐられるのを感じた。彼の緊張がこちらにも伝わり、静かな店内の中で、二人の間に流れる空気が微かに変わっていくのを感じる。
翔太くんはグラスを置き、ふと私をじっと見つめた。
「実は……初めてそういうことを考えたのは、中学の時だったんです。」
「……え?」
彼は照れくさそうに視線を逸らしながら続けた。
「美和さんが家に遊びに来たとき、ふとした拍子に胸元がちらっと見えたことがあって……その時、どうしようもない気持ちになったんです。」
彼の言葉に、私は思わず息をのんだ。彼が恥ずかしそうに苦笑しながら、目の前のグラスを指でなぞる。
「ずっと忘れられなかった。そんな気持ちを抱えながら、美和さんに何も言えずに過ごしてたんです。」
私は彼の真剣な表情を見つめながら、鼓動の速さを感じていた。
「そんなこと、思ってくれていたなんて……。」
翔太くんの手がそっとカウンターの上で私の指先に触れる。指先から伝わる彼の熱に、私は静かに息を吸い込んだ。
「今なら……伝えてもいいですか?」
静かなバーの灯りの下、ふたりの世界が少しずつ変わっていくのを感じた。
夜風に包まれて
店を出ると、涼しい夜風が頬を撫でた。翔太くんと並んで歩きながら、私はふと空を見上げた。星が瞬き、街灯が優しく二人の影を路上に落としている。
「久しぶりにこうして話せて、嬉しいです。」
彼の声が静かに響く。
「私も。まさか、こんな形で再会するなんてね。」
足を止め、ふと気がつくと、小さな公園の入り口にいた。夜の静寂が辺りを包み込み、人気のない空間が、まるで別世界のように感じられる。
「……少し、座りませんか?」
彼の提案に頷き、並んでベンチに腰を下ろす。静寂の中、微かな風が髪を揺らし、彼の吐息がすぐそばに感じられる距離だった。
彼の視線の熱が、まるで過去の記憶を辿るように私を射抜いていた。
——夜の静寂の中で、ふたりの距離がゆっくりと溶け合っていった。
気づけば、終電の時間はとうに過ぎていた。
「……どうしよう。」
私がスマートフォンの画面を眺めながらつぶやくと、翔太くんは少しの間考え込んだ後、意を決したように言った。
「タクシーを呼ぶのもいいですけど、近くにホテルがあります。一緒に休んでいきませんか?」
彼の声は落ち着いていたが、その奥にはどこか迷いと期待が混じっているように感じられた。
私は迷うように夜空を見上げ、静かな星の光を見つめた。心の奥底で渦巻く感情を抑えながら、私は小さく頷いた。
「……そうね、それがいいかもしれない。」
彼と並んで歩きながら、これがどんな夜になるのか、私はまだ分からなかった。
ホテルの静寂に包まれて
部屋のドアが静かに閉まると、外の世界の喧騒が途絶えた。室内は柔らかな間接照明に包まれ、淡い光が壁に優しく滲む。窓の向こうには夜景が広がり、星々が静かに瞬いていた。
翔太はグラスを手に取り、微笑みながら私を振り返る。
「もう少し、お酒を飲みませんか?」
私は頷き、彼が差し出したグラスを受け取った。氷が静かに溶け、琥珀色の液体が揺れる。ソファに並んで座り、グラスを合わせる音が静寂を満たす。
「……こうしてゆっくり話すのは、久しぶりね。」
「ええ……でも、どこか懐かしい気がします。」
彼の声は落ち着いていたが、その瞳の奥には揺れるものがあった。過去の記憶と、今この瞬間が交差するような不思議な感覚が私を包む。
窓の外のネオンがゆっくりと瞬き、二人の間に流れる空気が変わっていくのを感じる。ふと、翔太がそっと私の指先に触れた。
「……美和さん。」
彼の声が私の名を呼ぶと、胸の奥が熱を帯びた。グラスをそっとテーブルに置き、私は静かに彼を見つめる。
「……翔太くん。」
その名を口にした瞬間、すべての時間がゆっくりとほどけていくようだった。
夜の静寂の中で、私たちはただ、互いの鼓動を感じていた。
彼の視線が熱を帯び、ゆっくりと私に近づく。そのまま触れることも、言葉を紡ぐこともためらうように、彼はただ静かに見つめていた。
「……昔から、ずっと綺麗だと思っていました。」
かすれた声に、胸が締め付けられる。翔太は言葉を選ぶようにゆっくりと続けた。
「学生の頃は、ただ遠くから見ていただけでした。でも今は、こうして目の前にいる。」
指先が私の頬をなぞり、その温もりが心の奥へと染み込んでいく。胸の高鳴りが、部屋の静けさの中に響いていた。
私はそっと目を閉じた。
「……翔太くん。」
呼吸が混じり合い、時間がゆっくりと解けていく。
彼の手がゆっくりと私の腰に回され、私の身体を静かに引き寄せた。心の奥で灯った熱が、ゆっくりと広がり、触れるたびに波のように押し寄せる。
「美和さん……。」
翔太の声が震え、私はその熱を受け止めるように彼を見つめる。ふたりの影がひとつに重なり、部屋の静寂が甘美な空気へと変わっていく。
彼の指がゆっくりと私の髪を梳き、頬をなぞりながらそっと額を合わせる。近づくたびに、肌を伝う温もりが私の心の奥に沈んでいく。
「こんなふうに、あなたを感じるのが夢みたいで……。」
彼の声に微かな震えが混じる。それが胸の奥深くまで響き、言葉にできないほどの温もりに包まれた。
私は静かに息を整えながら、彼を見つめる。
「翔太くん……あなたといると、すごく落ち着くの。でも、それだけじゃない。」
翔太は私の言葉を待つように、そっと私の指を包み込んだ。
「私もね、ずっと覚えていたのよ。あなたのことを。」
私の囁きに、彼の瞳が微かに揺れた。
「え……?」
「あなたが、息子の友人として家に来ていた頃のこと。少し幼く見えていたけれど、どこか誠実で、真っ直ぐで……。それが、今こうして目の前にいるの。」
私は微笑みながら、そっと彼の手を握る。
「あなたの声も、仕草も、昔のまま。でも、今のあなたは大人になったわね。」
翔太は少し照れたように笑いながら、私の髪を優しく指で梳く。
「美和さんに、そう言ってもらえるなんて……。」
彼の手が再び私の頬に触れ、私はゆっくりと目を閉じた。
彼の腕が強く私を抱き寄せ、静かに、しかし確かな熱を持って私の唇に触れる。ふたりの呼吸が絡み合い、次第にその動きは深く、ゆるやかに満ちていく。
「……翔太くん。」
彼の名を呼ぶ声は、夜の静寂に吸い込まれていく。窓の外の夜景がぼんやりとにじみ、遠く瞬く星々が、ふたりの交わる影を優しく見守っていた。
静寂の中で、私たちはひとつの波に包まれるように、互いの存在を確かめ合っていた。
彼の手が私の背中を伝い、ゆっくりと引き寄せられる。ふたりの影がゆるやかに重なり合い、月明かりの下で静かに揺れる。鼓動が一つになるように、呼吸が絡み合い、ゆっくりと満ちていく時間。
「美和さん……。」
翔太の声が甘く震え、私は彼を受け止めるように優しく抱きしめる。窓の外の夜景が遠く霞み、部屋の静寂に包まれながら、ふたりの時間が穏やかに溶けていく。
夜はまだ、終わらない。
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