あの旅は、四週間という言葉では言い表せないほど、私の身体と心にしみ込んでいる。
舞台はベトナム北部、サパ――霧の棚田と素朴な笑顔が続く、深く緑に包まれた山岳地帯。私は番組ADとして、そのドキュメンタリー取材チームに参加していた。
23歳。スレンダーで、よく「スタイルがいいね」と言われることはあったけれど、私はそんな外見のことより、現場での立ち回りの不器用さばかりを気にしていた。髪は後ろで一つにまとめ、動きやすい服ばかり着て、化粧も薄い。仕事では怒鳴られ、笑われることも多かった。
そんな私が、このロケで最も頼りにしていたのが、カメラマンの佐伯さん――18歳年上の、現場では“レジェンド”と呼ばれるような人物だった。
長身で、少し焼けた肌に薄く混じる白髪、寡黙だが的確な指示を飛ばす姿は、どこか研ぎ澄まされた職人のようで、自然とチームの中心になっていた。誰にでも穏やかで、だけど簡単には心を許さないような、距離感を持っている人だった。
私とは、以前にも一度だけ仕事を共にしたことがあった。
その時、彼の腰が痛いというので、何気なくマッサージをしてあげた。それだけで終わった――だから、今回も、そういう距離感のままでいると思っていた。
ロケ7日目の夜。霧雨が細かく舞う山の夜だった。疲れきった身体を引きずるようにロッジに戻り、夕食を終えた私は、ひとりロビーの縁に座っていた。
すると、いつの間にか佐伯さんが隣に腰を下ろしていた。
「腰が限界。もう、背筋の感覚がないわ」
彼の口調はいつも通り、冗談のようでいて、どこか本音をにじませている。
私は少し考えてから、言った。
「……マッサージ、しますか?」
彼は一瞬、私の顔をまっすぐ見た。
「いいの?」
その目は、じっと私を観察しているようで、逃げ場を奪われるような気がした。
「じゃあ……今夜、23時に俺の部屋で。ほんとに、来る?」
「……はい」
私はうなずいていた。
それからの一時間、私は落ち着かなかった。部屋で一人、シャワーを浴びながら、体に付いた赤土を丁寧に洗い流し、タオルの上に腰を下ろして、深呼吸を繰り返した。
着替えはラフなTシャツとジャージ。それに、ホテル備え付けの浴衣のような上着を羽織った。胸元がわずかに開いていたが、意識しないふりをした。――しようとしていた。
23時ぴったり。
私はノックをして、彼の部屋のドアを開けた。
「どうぞ」
佐伯さんは、同じホテルの部屋着姿でベッドに腰をかけていた。
けれど、その浴衣は、胸元が深く開き、彼の鎖骨と、薄く筋の浮かぶ胸板が露わになっていた。
「お疲れ。……座って」
彼の声はいつも通りだったのに、部屋の空気が異様に静かだった。テレビもついていない。どこかで水のしずくが落ちる音だけが、ぽつんと響いていた。
私は彼の隣に座り、マッサージを始めた。
腰、背中、脚。彼の身体は、想像していたよりずっと大きく、熱を持っていた。私はその熱を、指先でたどるように揉みほぐしていった。
彼の息が、かすかに変わるのがわかった。
「……ありがとう。じゃあ、今度は俺の番」
「えっ、いえ、そんな、いいです……」
私が慌てて首を振ると、彼はふっと笑った。
「……遠慮しないで。いつも頑張ってるの、知ってるよ」
そう言われて、私の心にあった防波堤が、一枚だけ崩れた。
――私は静かに、うつ伏せになった。
彼の掌が、私の背中の中心に静かに置かれたとき、思わず息を止めてしまった。
それはただの“マッサージ”のはじまりであるはずなのに、肌に触れた手のひらは想像よりもずっと大きく、重たく、熱を帯びていて――私の心の奥を、じわりと溶かしていった。
ぐっ、と押し込まれる指の圧に、私は無意識に肩の力を抜いた。
「……けっこう凝ってるな」
彼の声は穏やかで、それだけで安心させられてしまうのが、怖かった。
でも、私の心は、もっと別の場所で騒いでいた。
身体がほぐれていく一方で、奥深いところに眠らせていた何かが、じわりと目を覚まし始めていた。
この人の手に、この夜に、なぜこんなにも安心して身を任せようとしているのか――自分でもわからなかった。
そして、ふいに。
彼の掌が、肩甲骨の間をなぞりながら、私の髪を片方に寄せた。うなじが露わになる。そこに、彼の吐息がふっとかかった瞬間――身体がびくりと跳ねた。
「……あのさ」
彼の声が、背中越しに落ちてきた。
「こういうの、気をつけたほうがいいんだよ」
「え……?」
答える間もなく、彼の体温がぐっと近づいた。
私の背中に、彼の胸板がゆっくりと重なる。呼吸のリズムが、真上から伝わってきた。
「だってさ……もし俺が、こうなったら?」
そのまま、私の耳元で囁かれながら、彼の手が私の腕を伝い、やがて腰に、太ももに滑っていく。スウェット越しでも、彼の指が私の形を探るように動いているのがわかった。
「……やだ……」
そう言いながらも、私は逃げようとはしなかった。
背中に重なる体重、うなじに落ちる彼の髪の先、そのすべてが、私の中の“抵抗”を少しずつ麻痺させていく。
「……生理中なんで……最後までは……」
それが、私の精一杯の抵抗だった。
だけど彼は、囁くように言った。
「わかってるよ」
そして――ゆっくりと私を仰向けにさせると、胸元に手を滑らせ、Tシャツの下から静かに指を差し込んできた。
「……ブラ、外すね」
ホックがほどかれ、胸が露わになる。私は腕で隠そうとしたが、それよりも早く、彼の唇が片方の乳首をふっと吸った。
その瞬間、身体が反射的に跳ねた。
そこは、私の中でいちばん敏感な場所だった。
「……や……そこ、だめ……」
けれど、彼は舌をゆっくりと回しながら、指先で逆側の乳首を優しく転がす。
私はいつしか、抗うのをやめていた。むしろ、自分から首を伸ばし、彼の手を探すようになっていた。
「……気持ちいい?」
「……うん……気持ちいい……」
自分の声が、あまりに素直すぎて、怖くなった。けれど、もう引き返せなかった。
唇が重なり、深く、熱く、長く、彼の舌が私の奥まで入り込んでくる。
互いの息が絡まり、私はただ、彼に飲み込まれていった。
口づけが深くなるたび、私の身体のどこかが、ひとつずつほどけていった。
彼の舌が私の奥を探るたびに、意識は白くゆらぎ、息は細く震えた。
唇が離れたとき、私は放心したように彼を見つめていた。
薄明かりの中、佐伯さんは私をまっすぐに見ていた。どこか迷いを抱えながらも、決して引き返さないという覚悟を宿した目だった。
「……生理中でも、したことあるよ」
その言葉に、私はまた一度だけ首を横に振った。
「やだ……今日は、汚いし、見られたくない」
彼は少しだけ笑って、そっとベッドサイドのランプを消した。
「じゃあ、見ない。部屋の端で、脱いでおいで」
闇が、私を守ってくれるような気がした。
私はゆっくりと立ち上がり、部屋の隅でジーンズとパンツを脱いだ。足元に落ちる布の感触がやけに鮮明で、胸の内がざわついた。
そして、彼の前に、もう一度立った。
布一枚すらまとうことのない自分を、真っ暗な空間の中にさらけ出して。
彼の手が、そっと私の腰を撫でた。
「……寒くない?」
「ううん……」
そして再び唇が触れ合う。
さっきよりも熱く、もっと深く、今度は彼の手が乳房を包み込みながら、親指で乳首を優しく転がす。
それだけで、私は細い声を漏らしてしまった。
私の身体は、明らかに求めていた。触れられるたび、敏感な場所に熱が集まり、脈打つように疼いていた。
生理中でなければ、私はもうとっくに彼のすべてを受け入れていただろう。
でも、今は。
「じゃあ……口でしてくれる?」
低い声で、彼が尋ねてきた。
私はためらいながら、うなずいた。
ベッドの縁に腰をかけた彼の前に膝をつき、浴衣の裾をめくる。
そこには、硬く昂ったものが静かに、けれど力強く待っていた。
指先で触れたとき、彼の太腿がわずかに震えた。
熱く、脈打つその中心に、唇をそっと添えると、彼は低く、喉の奥で息を漏らした。
ひとくち、含んだ。
想像していたよりも、ずっと熱く、ずっしりとした重みが舌にのしかかる。
私はゆっくりと動きながら、時折、目を上げて彼の表情をうかがった。
彼は、目を閉じて私の髪に手を添え、何も言わず、ただ静かに私を受け入れていた。
その沈黙が、かえって私を高ぶらせた。
――この夜は、もう戻れない。
その確信とともに、私は、彼にすべてをゆだねていた。
やがて、彼は私を抱き上げるようにしてベッドへと導いた。
シーツの上には、いつの間にかバスタオルが敷かれていた。
「大丈夫。ゆっくりするから」
彼の声に、私は小さくうなずいた。
そして、身体がひとつになった――そのとき、全身に火が走るような感覚が突き抜けた。
生理中の不安や罪悪感、羞恥も、すべて押し流されてしまうほど、深く、熱く、絡み合っていた。
佐伯さんの動きは、まるで私の反応を読んでいるようだった。
入り方も、角度も、速さも、まるで私がこうされたいと思ったままに届く。
「……気持ちいい?」
「うん……うん……」
私は小さく頷きながら、彼の背中に腕をまわした。
それは、ただのセックスではなかった。
誰にも言えない夜の秘密。
でも、心の奥で、長いあいだ渇いていた場所を、やさしく満たしてくれるような――そんな交わりだった。
やがて、彼が果てると、私はしばらく動けず、ただベッドに沈み込んでいた。
静寂の中、彼の手が私の髪を撫でる。
「お前、ドMなんだな」
「……言わないでよ」
私は枕に顔を埋め、笑った。
そして、もう一度、ふたりの間に沈黙が落ちた。
朝の光は、ベトナム北部の薄曇りの空を透かして、静かにロッジのカーテン越しに差し込んでいた。
目を覚ましたとき、隣にはもう彼の姿はなかった。
シーツの上には、昨夜の名残を隠すようにきちんと畳まれたバスタオルがあり、私のジャージとTシャツも無言でベッド脇に置かれていた。
まるで夢だったかのように、整えられた空間。だけど、私の身体は、確かに覚えていた。
太ももの奥の鈍い痛み、首筋に残る彼の無精髭のざらつき、唇の内側に残った感触。
身体のどこもかしこも、彼に触れられた記憶でじんわりと疼いていた。
私はひとつ深呼吸して、ゆっくりと着替えをはじめた。
鏡の前で髪を束ねなおしながら、自分の頬にまだ微かに火照りが残っていることに気づいた。
――これは、忘れられない。
けれど、忘れなければならない夜だった。
ロケは、まだ二週間以上残っていた。
感情を表に出せば、すべてが崩れてしまう。だから私は、ただのADとして振る舞った。いつものように、鈍くさく、必死で、汗を拭きながら走り回った。
彼もまた、変わらなかった。
カメラのファインダーを覗きながら、淡々と仕事をこなし、ときどき私にだけ聞こえる声で、
「タイミング、良かったな」
とだけ言った。
けれど、その言葉の奥に、あの夜と同じ体温を私は感じていた。
それ以降、ふたりの間に、再びそういう関係になることはなかった。
あの夜だけが、異物のように記憶に残っている。
けれど、時折。
彼の後ろ姿を見たとき。
誰もいない昼休みに、山を見ながらコーヒーを飲んでいる横顔を見たとき。
私は、無意識にあの夜を思い出してしまう。
彼の指、唇、重なった吐息。
交わったあとの、深く沈む静けさと、そこにひそむ、妙に温かい寂しさ。
私にとって、それは一度きりの背徳であり、
たった一夜の赦しでもあった。
もう一度、彼とあの夜に戻れるなら。
今度は、ラブホテルのシーツの上で、もっとゆっくり、もっと心まで溶けるようなセックスがしたい――
そんな想いを、誰にも見せないノートの隅にだけ、私は密かに綴っている。
たぶん、きっと、これからも。
私はあの夜を、心の奥で密かに抱きしめ続けるのだろう。
それが恋でないことくらい、わかっている。
でも、あの夜、たしかに私は、
女でいた。



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