1. この夜だけ、私じゃない私になる
ロビーの空気は、ひどく静かだった。
ホテルの照明は柔らかく、それがかえって、私の呼吸の乱れを際立たせた。
大理石の床に映る自分のヒールが、場違いな音を立てる。
私の手は、黒いワンピースの膝の上にきちんと揃えられていたけれど、内側では細かく震えていた。
仕事帰りに立ち寄ったこの場所は、私の日常のどこにも属していない。
会社の同僚が見たら、きっと目を疑うだろう。
「真由美さんが…こんな場所に?」──想像するだけで、背中に汗がにじむ。
そんな私の横で、彼が囁いた。
「もうすぐだよ。ちゃんと、心の準備はできてる?」
声は優しかった。けれど、確信に満ちていた。
彼にとってこれは“予定された演出”であり、私にとっては“踏み越えるべき一線”だった。
私は、小さく頷いた。
でも心の中では──すでに、頷いていた。
もっと前に。
最初に彼に「やってみたいことがあるんだ」と言われたときから。
あの夜、彼の手が私の喉元に添えられ、「きっと真由美なら…興奮すると思う」と静かに言ったときから。
私の中の“もう一人の私”は、目を覚まし始めていた。
外の街の喧騒は、まるで遠い国の出来事のようだった。
ここは、誰にも見られない箱庭。
本当の私だけが存在しても、許される場所。
私は立ち上がった。
ロビーのソファから身体を起こすとき、まるで自分の殻を脱ぎ捨てるような錯覚があった。
彼の手が、そっと私の背に触れる。
温度を感じるだけで、身体の奥が熱を帯びていく。
──本当は、もうとっくに、覚悟なんて決まっていた。
“私じゃない私”を、待ち望んでいた。
その夜の扉が、音もなく、開こうとしていた。
2. 知らない瞳が、私を脱がせていく
ホテルの一室──
重厚なドアが、彼の手で静かに押し開けられた。
まるで舞台の幕が上がるような、張り詰めた静けさが、廊下と室内を分かっていた。
室内の空気はわずかに湿っていて、ソファとカーテンの間に滞留した空気が、濃密な気配を孕んでいる。
間接照明の灯りに浮かび上がるのは──男たちの影。
3人の男たちが、まるで招かれた役者のように、それぞれの場所で佇んでいた。
ソファに脚を組んで座っていたのは、30代前半ほどのスーツ姿の男。
メガネ越しにこちらを見つめながら、手にしたグラスを傾ける仕草がどこか挑発的だった。
窓際に立つ年配の男は、落ち着いたベージュのニットを着ていて、品のある佇まいとは裏腹に、視線だけは無遠慮に私の脚をなぞっていた。
もう一人、ベッドの端に座っていた20代の若い男は、Tシャツにジーンズというカジュアルさで、けれど目の奥だけが妙に熱を帯びていた。
「こんばんは」
私は、ごく自然を装って声を出した。
けれど、喉の奥は乾いていた。
唇の内側を、無意識に噛んでいた。
まるで、音を放った瞬間から自分という存在が彼らの“視線の中”に吸い込まれていくようだった。
男たちは、一瞬、言葉を失ったように私を見つめていた。
その空白の時間が、恐ろしいほど長く感じられた。
そして、それは──悦びだった。
彼らの目の中に映る「清楚な女」という仮面が、逆に私を昂らせていく。
彼の隣に立つ私は、黒のワンピースにベージュのトレンチを羽織っていた。
会社帰りにふさわしい、どこにでもいるOLの装い。
けれど、男たちの目は、服ではなく、その“下”を見ていた。
彼が小さく肩をすくめて、言った。
「ほら、ちゃんと来たでしょ。かわいいだろ?」
その瞬間、男たちの視線がわずかに動いた。
顔から胸、胸から脚、そしてまた目元へ──。
視線という名の指先が、私の全身を触れていくようだった。
私は無意識に、トレンチのベルトを握りしめた。
なぜか、笑いたくなった。
この男たちは、私のことを“本当にそんなふうに見ている”。
何も知らないまま、清楚な仮面の奥で蠢く私の欲望には気づかずに。
──清楚に見えるということが、これほどまでに淫らな武器になるなんて。
私は、今日、初めて知った。
男たちの視線は、決して下品ではなかった。
けれど、あまりにも無防備で、まっすぐで、
その真剣さが、かえって私を濡らした。
私の身体はまだ何もされていない。
けれど、すでに“見られている”だけで、
心の奥では衣服が一枚ずつ剥がされていくようだった。
彼の手が、私の腰に軽く触れた。
その小さな合図だけで、
「今夜、私はどうなってもいい」と思えた。
3. その手が触れたのは、皮膚ではなく渇望
「順番に、シャワーを浴びてもらって」
そう彼が言ったとき、男たちは何も言わずに頷いた。
静かな従順さ。
それが、今日という夜の“脚本”に従っている証だった。
私が見ている前で、彼らは一人ずつバスルームへと向かっていった。
ドアの向こうからは、お湯が打ちつける音と、シャワーの蛇口をひねる金属音。
見知らぬ男が私のために身体を清めている。
その事実が、妙に胸を高鳴らせた。
一人目の男が、バスローブを羽織って戻ってきた。
湯気をまとった髪先から、ぽたりと水が落ちる。
湿り気を帯びた肌の色が、照明の光で琥珀のように見えた。
「どうぞ」と彼が促す。
私はゆっくりと立ち上がり、男の前に膝をつく。
ラグの柔らかさと、男の体温が近づく音──
この沈黙が、もう前戯の一部だった。
バスローブの裾をめくると、そこに現れたのは、見知らぬ男の一部。
誰かの、けれど“誰でもない存在”の象徴。
恐れと好奇心、禁忌と熱が、同時に喉元を這い上がる。
唇を近づけ、息をふっと吹きかけると、
男がかすかに震えた。
熱を持った肌の鼓動が、私の頬を打つ。
唇が触れる瞬間の、ほんのわずかなためらい──
その刹那にすら、私の欲望は震えた。
私は丁寧に、ゆっくりと、舌を這わせていく。
その形を、輪郭を、味を、すべて覚えようとするように。
まるで記憶に刻むように、
彼の存在を“味わって”いった。
次に現れた男は、全身の毛を剃っていた。
肌はつるりと滑らかで、湯気に濡れた皮膚がまるで陶器のようだった。
私は手のひらを彼の腿に添え、その清潔な肌を撫でた。
彼が浅く息を飲むのが聞こえた。
「……気持ちいいです」
そう小さく呟かれた瞬間、
私は“私”という存在が彼らにとっての儀式になっていると気づいた。
唇、舌、手。
私のすべてが、誰かの記憶になる。
それが、どうしようもなく快感だった。
三人目の男は、少し年上で、身体にしっかりとした厚みがあった。
彼の前に膝をつくとき、その重厚な存在感に、私は僅かに怯えた。
けれど、唇が彼の肌に触れたとき、
その硬さが、驚くほど愛おしく感じられた。
私は、そこにあるすべてを、ただ“なぞる”ことに徹した。
唇で、舌で、指先で。
違う体、違う匂い、違う温度。
けれど、どれもが“私を悦ばせたい”という一つの願望で繋がっている。
気づけば、私は彼らの中心だけでなく、
下腹部の根元、柔らかな袋、そしてその奥の──
恥ずかしくて口に出せないような場所にも、
彼の指示で唇を伸ばしていた。
「ここも…気持ちいいんだよ」
彼が耳元で囁くと、
私はためらいながらも、そっとそこに舌をあてた。
ある男は震えながら、「信じられない…」と呟いた。
その言葉が、私の背中をさらに押した。
「こんな私が、こんなことをしている」
その倒錯こそが、私の昂ぶりの源だった。
私の唇に触れたすべての場所が、
私自身の欲望の境界を少しずつ壊していく。
もう戻れない──
そう思いながらも、
その“戻れなさ”に、私は喜びを感じていた。
4. 四人の男と、ひとつの女と
部屋の空気が変わったのは、彼が「始めようか」と呟いた瞬間だった。
灯りが一段階、柔らかく落とされる。
まるで映画館の幕間。
ここから先が、本当の“演目”なのだと身体の奥が告げていた。
私はベッドの縁に腰を下ろし、トレンチを脱ぐ。
肩が露わになったとたん、空気が肌を撫でた。
その冷たさすら、すでに愛撫に感じられる。
男たちは、誰からともなく近づいてきた。
距離の詰め方に迷いがあるようでいて、
その実、彼らの瞳は一つのものだけを見つめていた──私。
私の視線が誰かとぶつかるたびに、
「見られている」という実感が体中を駆け巡る。
胸元、鎖骨、膝、小さく震える手の指先まで、
見えない舌で舐められているようだった。
「じゃあ、俺が先に」
そう言って、彼が私の後ろに立った。
次の瞬間、彼の手がゆっくりと私の髪をかき上げる。
首筋に落ちた彼の唇が、火の粉のように熱を残す。
そのまま、彼が私の身体をそっと押し倒した。
背中がベッドに沈むと、周囲に男たちの気配が満ちていく。
まるで異なる体温、違う体格、異なる吐息のリズム──
けれど、それらは徐々に私の中で一つの“波”に変わっていく。
彼が私の脚をそっと開き、
私の身体の中心に、深く沈んでいった。
私の両腕には、すでに別の男の熱があった。
片方の手に固く張り詰めた存在感が触れ、
もう片方の手も、別の男の鼓動を感じていた。
私の唇にも、また別の命が触れてくる。
唇を開くと、そこには躊躇いがちな熱。
けれど、私の舌がそれを迎えると、
男はかすかに喉を鳴らした。
私の身体は、今や“四人の男の欲望”に囲まれている。
触れられ、舐められ、突かれ、見つめられる。
それらが一つになって、私の意識を溶かしていく。
視線を落とすと、彼以外の男たちの“かたち”が目の前に揺れていた。
違う色、違う形、違う匂い。
でもそれらすべてが、私のために“昂っている”ということが、
言葉にならないほどの悦びだった。
誰かの手が乳房を撫で、誰かの唇が肩を這い、
誰かの吐息が髪の奥に沈んでいく。
もう、どれが誰のものなのかもわからない。
でも、その“わからなさ”が、快楽を深くする。
「すごいな……こんなに綺麗に…受け入れてる」
男の誰かが、ぽつりとそう呟いた。
私は何も言わずに、その言葉を身体で肯定した。
抗うという選択肢は、とっくに失っていた。
私の中では、すべてが自然で、必要で、正しかった。
彼らが私を見ている──
その視線の中で私は、どんどん溶けていく。
見られること、それ自体が愛撫だった。
私という存在が、今この部屋の“中心”になっている。
そしてそれを、私は誰よりも求めていた。
5. 満たされながら、溢れてゆく
彼が私の脚を開いたとき、私はもう、完全に“受け入れる側”だった。
羞恥も、ためらいも、どこか遠くに置き去りにして。
私の中が、彼を待っていた。
──いや、“彼だけ”ではない。
あの部屋にいた全員の熱を、私は待っていたのかもしれない。
彼の熱が、私の深くへとゆっくり押し入ってくる。
最初は、痛みに似た刺激だった。
でも、それがたまらなかった。
その重み、その圧、その摩擦。
すべてが、“私という器”を音もなく満たしていった。
「……綺麗だよ、真由美」
彼のその声が、私の内側を震わせる。
私の膣が、まるで言葉に反応するように収縮するのがわかった。
奥まで届いた彼の形が、私の輪郭を内側から変えていく。
でも──
その瞬間、私は“彼だけ”を感じているのではなかった。
彼のリズムに合わせて、他の男たちの手が動き出す。
指先が、舌が、唇が、私の皮膚の上に“違う物語”を描いていく。
胸元に吸いつく口、
首筋を這う吐息、
ひたいに触れる濡れた掌。
そのすべてが、同時に私を描き出していく。
彼が私の中で強く動くたびに、
他の誰かの手が私の乳房を握り、
誰かの唇が耳元で何かを囁く──それが何語であれ、意味は一つだった。
「君は今、男たちの中心にいる」
見上げた先には、男たちの欲望そのものが揃っていた。
誰のものかわからない、けれど全部が私を求めている形。
私は片方の手で、そのひとつに触れ、唇で迎える。
硬く、熱く、震えていた。
それが私の口の中で跳ねるたび、
下半身では彼の動きがさらに深く突き上げてくる。
私の身体はもう、自分ひとりのものではなかった。
すでに、私の中も口も、手も、視線も、
四人の男に“共有”されていた。
だけど、それが嬉しかった。
それが──気持ちよかった。
彼の動きが次第に速くなる。
ピストン運動のたび、私の内部がきしむような快感で締めつけられ、
同時に乳首に触れる舌が甘く痺れる。
どれか一つでも欠けたら、バランスが崩れてしまいそうな、そんな狂おしい感覚。
「もう…だめ、イッちゃう……」
声が漏れた瞬間、彼が深く押し込んで、
私は白く弾けた。
視界がにじんだ。
誰かの太腿に顔をうずめ、
何か熱いものが唇に当たった──
反射的に口を開くと、それは舌の上にとろりと落ちてきた。
苦いような、甘いような、
鉄のような、塩のような。
それが何かわかっていて、
だからこそ、私はすべてを受け入れた。
まるでその熱が、
私の奥にもうひとつの“心臓”を生んだようにさえ思えた。
私は、男たちの汗と、唾液と、
そして欲望の中心で、
ひとつの“塊”として生きていた。
6. 身体は嘘をつかない、快楽だけが真実だった
自分の名前すら、思い出せない瞬間がある──
たぶん、それが“絶頂の証”なのだと、私はこの夜で初めて知った。
彼の熱が私の中で満ち、喉の奥で誰かの吐息が絡みつく。
誰の手が、私の頬に触れているのか。
誰の指が、乳首を愛撫しているのか。
誰の熱が、脚のあいだから溢れているのか。
──もはや何ひとつ、わからなかった。
でも、身体は覚えている。
震え方、喘ぎのタイミング、奥に届く衝撃の角度。
私の身体は、それを“悦び”として、何度でも迎え入れてしまう。
唇に触れるものがあれば、反射的に口を開き、
舌を絡めることを求める。
手のひらが熱に触れれば、自然と握り返し、
そこに宿る固さを味わう。
誰かが私の髪を掴んだ。
その力強さに背筋が震え、
同時に背後から深く突き上げられると、
私はまるで波にさらわれるように、声をあげた。
「もっと……もっと……」
そんな言葉が、唇の隙間から漏れていた。
理性が止める前に、快感が舌を動かしていた。
腰が跳ね、喉が鳴り、胸が揺れる。
見られている。触れられている。満たされている。
──それ以上に、**“存在している”**ことを実感できた。
誰かが私の中に達し、
熱い想いを注ぎこむ感覚。
それが私の奥に届くたび、
私は身体の芯から震えた。
中に、流れ込んでくるもの。
それは精でもあり、支配でもあり、
でもなにより──“認識”だった。
私は今、彼らに“女”として刻まれている。
そして、それを望んでいる。
誰のものにもならないふりをして、
全員に貫かれる悦びを、全身で抱きしめていた。
何人目かの男が、私の身体の上で大きく喘ぎながら達した。
汗と欲と体温が、私の肌に降り注ぐ。
その重さを、私は誇りのように受け止めた。
「こんなにも愛された」という証のように。
私は、“汚れていく”のではなかった。
むしろ、“清められていく”気がしていた。
欲望という名の水で、
私の中の偽りや仮面がすべて洗い流されていくようだった。
快楽の余韻の中、
誰かの手がまだ私の腰に触れていた。
誰かの唇が、私の鎖骨に触れていた。
誰かの声が、遠くで私の名前を呼んでいた──かもしれない。
でも私は、応えなかった。
なぜなら、その瞬間だけは「私」という輪郭すら脱ぎ捨てたかったから。
身体は嘘をつかない。
心は欺けても、
欲しいものに触れたとき、
身体は、震えて、濡れて、開いて、受け入れてしまう。
それこそが、たった一つの真実。
快楽だけが、私を嘘から解き放ってくれた。
7. 朝が来ても、私はまだその女だった
カーテンの隙間から、淡い光が差し込んでいた。
ホテルの部屋は、まだ熱の余韻を残している。
床にはラグが少しずれていて、
ベッドサイドには脱ぎ捨てられたワンピースがしわのまま沈んでいる。
私は、シーツの上でうつ伏せになったまま、
ぼんやりと天井を見つめていた。
眠ったのか、眠っていなかったのかも、よくわからない。
ただ、身体のどこかがまだ“誰か”を覚えていた。
髪に触れる指先。
彼が隣で、何も言わずに私の髪を撫でている。
昨夜、私をあんなふうに導いた男の手とは思えないほど、
その仕草はやさしく、静かで、切なかった。
「綺麗だったよ」
彼がそう言ったとき、私は答えなかった。
でも、喉の奥がかすかに鳴って、
涙でも吐息でもないものが、こぼれそうになった。
綺麗だった──
あのとき、私は確かに綺麗だったと思う。
誰かに見られながら、
誰かに開かれながら、
誰かの中に、口に、記憶に、深く刻まれていった私。
「女」として、ただ“感じる存在”として。
私は、自分が欲望そのものに変わっていくのを受け入れていた。
それを恥ずかしいとは思わなかった。
むしろ、それが**“本当の自分”なのかもしれない**とさえ思えた。
「コーヒー、淹れる?」
彼の声が、日常の気配を運んでくる。
──日常。
その言葉に、私は胸の奥でわずかに身構える。
“あの夜”の私と、“今日からまたOLに戻る私”
ふたつの自分が、朝の光の中で重なり合わずに浮いていた。
ベッドの端に座り、裸の脚を折って、
私は自分の太ももに指先を走らせてみる。
まだ微かに火照っている。
そこに触れただけで、昨夜のざわめきが肌を通して蘇ってくる。
男たちの手、視線、重さ、吐息、温度。
ひとつひとつが、私の身体の中に残響として生きている。
きっと誰も、私がこんな夜を過ごしたとは思わない。
会社の同僚も、家族も、通勤電車の乗客も──
みんな、私のことを“真面目でおとなしいOL”だと思っている。
でも、本当は違う。
私は今、“四人の男に同時に愛された”女だ。
それを、甘やかに、誇らしく、そして少しだけ孤独に思い出している。
もう戻れない。
あの夜を知ってしまった以上、
私はもう、ただの“誰か”にはなれない。
彼が差し出したカップの熱が、指に触れる。
それだけで、身体の奥がざわめいた。
快感の記憶は、肌に残る。
そして、その記憶こそが、私をまた“あの夜の女”に戻してくれる。
朝が来ても、私はまだ、その夜の続きを生きている。
そして、きっと──
これからも。
8. 普通のふりをした、もう普通じゃない私
朝の通勤電車。
窓に映る自分の顔は、昨日までと変わらない。
髪をまとめ、控えめなメイクを施し、グレージュのパンプスを履いた“どこにでもいるOL”。
吊り革を握る手は落ち着いていて、肩には社名の入ったノートパソコンが提げられている。
誰も知らない。
この指が、昨夜どんな熱を握っていたかを。
この唇が、どんな形を愛したかを。
目の前に立つ男性のネクタイの結び目を見ながら、私はふと思う。
──この人の熱は、どんな匂いがするのだろう。
この人の吐息は、耳にかかったらどんな音がするのだろう。
身体が勝手に、あの夜の感触を重ねてしまう。
オフィスの窓越しに見える空。
いつもより少し白く霞んで見えたのは、
私の身体の奥にまだ、昨夜の熱が残っていたからかもしれない。
「真由美さん、会議の資料、確認お願いできますか?」
同僚の声に振り返り、私は微笑んで頷く。
──そう、私は“ちゃんとした女”でいる。
誰にでも信頼され、真面目で、几帳面で、安心感を与える人間。
でも、レジに並んでいるとき。
カフェでコーヒーを待っているとき。
靴を履き替えるために屈んだとき──
ふと、あの夜の記憶が、肌の裏から浮かび上がってくる。
誰かに膝を開かれた感触。
誰かの腰にしがみついたときの爪の沈み。
誰かが、私の奥に溶けていった温度。
私の中には、今もその“快感の残り火”がある。
それは痛みではなく、悦びの名残。
まるで秘密の香水のように、誰にも嗅ぎ取られない場所で、私の身体に馴染んでいる。
それを知っているのは、私だけ。
私が、私の身体を通して知ってしまった快楽。
見られる悦び、責められる悦び、飲み干す悦び──
そして、“誰でもない存在”に抱かれる悦び。
日常の私を演じながら、
その裏で、私はあの夜の私を生きている。
この背中に、誰の手も残っていない。
けれど、触れられた場所が疼くときがある。
電車の揺れで脚が密着したとき。
ふとした瞬間に息が漏れたとき。
それだけで、記憶がさざ波のように打ち寄せてくる。
「普通」でいるために身に纏っている服も、
今の私には“仮面”にすぎないのかもしれない。
私の本質は、もっと内側、誰にも見えない場所にある。
私は、“普通のふりをした、もう普通じゃない女”。
そのことを、私は誰にも言わない。
誰にも言えない。
──でも、だからこそ、私は美しい。
身体の奥に火を灯したまま、
私は今日も、笑って歩いている。


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