「嫉妬という名の縄で、私たちはもっと深く縛られた」
最初にその誘いを受けたとき、私は一瞬、呼吸を止めた。
「今度、一緒に来てほしい」
そう彼が口にしたのは、何気ない夜の帰り道だった。
手をつないでいたはずのそのぬくもりが、ふいに遠く感じられたのを、私は今でも覚えている。
声の調子はいつも通りだった。穏やかで、柔らかくて、私の好きな彼の声。
けれど、その奥に潜む熱──それは、確かに何かを欲している音だった。
言葉の端に滲む、それまで触れてこなかった欲望の輪郭に、私は鼓動を早めた。
「もうひと組、カップルが来る。前に少しだけ一緒に遊んだことがあるんだ」
彼は続けた。
“遊ぶ”──その言葉に、私の背筋がすうっと冷えるのを感じた。
けれどその感覚は、決して不快ではなかった。
まるで氷を這わせるような、静かで確かな緊張。
その奥で、眠っていた何かがじんわりと目を覚まし始めていた。
「見てるだけでもいい。無理はしないから」
そう言われたとき、私はすぐには返事ができなかった。
ただ、彼の目を見つめることしかできず、
その視線に、私自身が映っているようで、逃げられなかった。
──私以外の女を、彼がどう見るのか。
──彼の目の前で、私は何を感じてしまうのか。
知りたい、でも怖い。
けれど、その「怖さ」を抱きしめてしまいたいと思った瞬間、
すでに私は、その一歩を踏み出していたのだと思う。
当日、彼の部屋は深い静けさに包まれていた。
カーテンは閉じられ、ランプの灯りだけが空間を仄かに照らしている。
家具の輪郭さえ柔らかく溶かされて、
その夜のためだけに呼吸しているような部屋になっていた。
私は少し緊張した指先で、スカートの裾を握っていた。
隣で彼は何も言わなかった。
けれど、その沈黙の中に「見届けている」という強さがあった。
数分して、もう一組のカップルが現れた。
ノックの音のあと、ゆっくりと開いた扉から入ってきたのは、
肩までの髪を軽く巻いた、華奢な女性と、その背後に立つ長身の男性だった。
彼女は白いシャツをふわりと羽織り、足元には素肌がのぞいていた。
まっすぐ私の方を見て、優しく笑った。
「よろしくね」
その一言に、空気がすこし揺れた気がした。
敵意ではない。ただ、静かな火のような「気配」だけが、部屋に灯る。
誰も騒がない。音楽もかからない。
あるのは、視線と呼吸のわずかな温度だけ。
それが、空気を濡らし、ゆっくりと部屋を染めていく。
「今日は、触れてもいい。でも、キスと挿入はナシ」
彼が静かに言った。
その言葉に、私の中の何かが音を立てた。
「君が、見ている中で、僕が彼女を触っても…平気かな?」
その問いは、優しい声の形をしていたけれど、
私の中ではひどく残酷な刃のように感じられた。
でも、それでも──私は頷いた。
自分の意志で。
超えてみたい、と思ったから。
恐れと欲望が同時にせめぎ合い、
そのあいだでしか得られない何かが、確かに存在している気がした。
彼が私の手首に絹紐を巻いたのは、その直後だった。
やわらかく、でも決して逃れられないように、丁寧に。
背後にまわった彼の手が、私の両手を静かに引き寄せ、
結ばれていく感触に、私は喉の奥を詰まらせた。
「嫌だったら言って。すぐにほどくから」
その言葉が、むしろ私を緊張させた。
“自由であること”が与えられていると気づいた瞬間に、
私はむしろ、支配されることを選んでしまっていたのだから。
指先が、すこしずつ締められていく。
腕の内側から、じんわりと熱が滲み出してくる。
それは、羞恥とも快感ともつかない感覚で、
ただひたすらに、自分という器が誰かの手によってかたちづくられている──
そんな実感だった。
─ 触れながら、私は私を溶かしていった ─
彼に縛られ、見せられ、触れさせられたあの時間を越えて──
私は少しずつ、自分という枠組みがほどけていくのを感じていた。
彼がそっと私の肩を撫でながら、静かに囁いた。
「口で、迎えてごらん」
言葉は優しいのに、その命令の響きは、私の膝を自然と折らせた。
ベッドの端に腰かけた彼の前で、私はゆっくりと膝をついた。
目の高さにある彼のそれは、すでに熱を帯び、脈打ち、私の存在を待っていた。
一瞬だけ、視線を上げる。
彼は黙ったまま、ただ私を見つめていた。
拒む理由はなかった。
むしろ、求められていることが、今の私にとってなによりの安堵だった。
指先で、そっと触れる。
その硬さと熱に、胸の奥が疼いた。
唇を寄せると、先端から微かに、命のしずくが香り立つ。
ゆっくりと舌を這わせた瞬間、彼の指が私の髪を掬い、軽く後頭部を支えた。
「そう……上手だよ」
褒められたその言葉が、背中をぞくりと撫でた。
私はさらに深く咥え込み、舌先で円を描くように愛撫した。
喉奥に届きそうなその質量に、えずきそうになるのを堪えながら、
頬を窄め、唇の密度を変え、吸い上げる。
ぬるり、ぬちゃり、と自分の唾液が彼の根元に滴る音が、部屋に小さく響く。
けれど恥ずかしさは、もはや快感の中に溶けていた。
彼はときおり喉を鳴らしながら、髪を優しく梳いた。
「全部、受けとめたい」と思わせる手だった。
私の献身が、彼の熱を育てていくのが分かる。
そのことに、密やかな満足と悦びを覚えていた。
しばらくして、彼は私の頬を撫でながら、そっと言った。
「……おいで。今度は、君が上だよ」
私は頷き、ベッドの上へ導かれる。
彼の太腿にまたがるように膝を立てると、
視線が自然と交差した。
「自分で導いてみて」
その一言は、命令というより、信頼だった。
私は震える指で彼を掴み、自らの奥へとゆっくりと導いた。
その瞬間、背筋を稲妻が走った。
自分の中に「他者」が入り込んでくる感覚。
けれど、それは侵入ではなく、ひとつの融合だった。
熱が、奥深くに届いていく。
私の中を撫で、擦り、広げながら、
彼の存在が、私の「核」にまで達していく。
私は両手を彼の胸に添え、ゆっくりと腰を落とした。
静かに、上下に揺れながら、
少しずつ、快楽の波が広がっていくのを感じる。
「気持ちいい……」
自然と零れたその声に、彼の手が私の腰を支える。
彼の中で動くたびに、自分の奥が形を変えていく。
まるで「私という器」が、彼によって新しく生まれ変わるようだった。
体位が変わると、感覚も変わる。
正常位では彼の重さに甘えられた。
後ろからでは、彼の支配に全てを委ねられた。
けれど、騎乗位──それは私が彼を抱く体位だった。
自らの動きで、彼を感じる。
自らの決断で、快楽を選びとる。
そしてその選択を、彼が見守ってくれている。
そんな官能の中で、私は静かに、深く、絶頂へと辿りついた。
喉の奥から湧き上がった甘い嗚咽。
腰が勝手に震えて、彼の上で崩れ落ちる。
波のような快感に支配されながら、彼の胸に顔を埋めた。
「愛してる」と言われたわけじゃない。
でもあのとき、彼に「抱かれていた」のではなく、
私が「彼を受け入れた」のだと、身体が理解していた。
彼にほどかれた絹紐は、ベッドの端で静かに丸まっていた。
腕に残る跡はもう赤みを帯びていないのに、
その感覚だけが、まだ肌の奥に生きていた。
触れ合い、飲み込み、揺れて、受け入れて。
女であることのすべてが、あの夜に詰まっていた。
そして私は今もなお、その夜の続きを、
どこかで夢見てしまう。
─ 私の奥底に、彼の舌が触れたとき ─
彼の上で震えながら絶頂を迎えた私は、
肩で呼吸を繰り返しながら、そのまま彼の胸に倒れ込んだ。
汗の滲む肌と肌が重なり合い、
そこに言葉は必要なかった。
ただ、静かに包まれていた。
しばらくそうしていたあと、
彼がそっと私の髪を掬い、耳元に唇を近づけた。
「次は……僕に、君を味わわせてほしい」
その囁きに、息が止まりかけた。
恥ずかしさと、どこか満たされきらない欲望が、
再び身体の奥から静かに広がっていく。
私はゆっくりと横たわり、脚を少し開いた。
彼が腰の位置に唇を近づけてくるのを、
目を伏せたまま、ただ待った。
吐息が、太腿の内側をなぞる。
わずかな距離が、途方もない緊張となって身体を支配する。
そして──
彼の舌が、花びらの奥にそっと触れた。
その瞬間、背中が弓なりに反った。
舌の先が、柔らかな襞をひと筋ずつたどっていくたびに、
快感のしぶきが波のように押し寄せる。
「きれいだよ……すごく、甘い」
その声がまた、私の奥を緩ませる。
唇で吸い上げ、舌で撫で、指で包む。
彼の動きは一切の急ぎを見せず、
まるで「私という器」の形を、ひとつずつ確かめるようだった。
指がそっと中へと差し込まれる。
舌は外側を愛撫しながら、指は奥の秘密を探る。
その両方に、私の感覚は引き裂かれるように混乱し、
気づけば指をぎゅっとシーツに埋めていた。
「……やだ、イっちゃう……」
恥じらいの声が漏れるたび、彼はより深く舌を這わせた。
「イってごらん。君の全部、僕が飲み込むから」
喉奥で囁くその言葉に、
私の身体は、たったひとつの命令に従うかのように震え、
果てていった──舌に、指に、そして彼に、すべてを晒して。
「まだ……足りないだろ?」
絶頂の余韻で震える身体を引き寄せながら、彼が囁いた。
次の瞬間、私はうつ伏せにされていた。
ゆっくりと腰を持ち上げられ、後ろから脚を開かされる。
「後ろから……君の奥に、全部届けたい」
その言葉に、身体が微かに揺れる。
背中に唇を這わせながら、彼が自分を私に添わせた。
そして、ゆっくりと──
熱が、後ろから深く差し込まれてくる。
先ほどとは違う角度、違う密度、違う深さ。
まるで自分の内側が誰かに掴まれているような感覚に、
私は声を漏らすしかできなかった。
「…奥……当たってる…っ」
彼のものが、私の一番奥に触れたとき、
自我の境界が溶けていくのを感じた。
手は腰を支え、時折、首筋にキスを落とす。
優しさと支配が同時に流れ込んでくるような
そのリズムが、快楽の波を幾度となく呼び起こす。
やがて──
身体の奥から、熱い震えがこみ上げてきて、
私は再び、啼くように絶頂を迎えた。
「……だめ、壊れちゃう……っ」
そう呟いた私の背中を、彼はそっと撫でた。
「壊れていいよ。僕の中でなら、全部受け止めるから」
その言葉が、深く深く、私のなかに染み込んでいった。
まるで朝露のように、心と身体が静かに落ち着いていく。
シーツのしわの中に残る熱、
首筋に残る唇の痕、
膝の間をつたう、余韻の雫──
すべてが、愛という言葉では足りない何かを、
確かに伝えていた。
私は、ひとつの夜を超えて、
また新しい「私」になったような気がした。
彼に触れられ、喰まれ、満たされ、
そして自ら、すべてを委ねたこの夜を──
私は、きっとずっと忘れない。
終章
「朝の光が、私をまだ縛っていた」
目を覚ましたとき、部屋には薄い光が満ちていた。
カーテンの隙間から差し込む朝の陽射しは、
まるで何もかもを洗い流すように、やさしく静かだった。
横を向くと、彼がいた。
穏やかな寝息と、ほどけた髪。
昨夜、私を支配し、欲し、命令した男が、
今は子どものように無防備に眠っている。
私はそっと腕を伸ばし、彼の肩に指を添えた。
その肌に、まだわずかに熱が残っていた。
思い出す。
彼の舌が、指が、熱が、私の奥に残していったものを──。
首筋には、今も彼の口づけの痕が残っている。
膝を寄せ合ったあの夜の体位、
後ろから打ち込まれるたびに、私は何かを奪われ、
何かを与えていた。
それは、恥じることでも、誇ることでもない。
ただ、そこにあった真実。
彼は私のすべてを知ろうとした。
その行為が、支配であり、愛情であり、私にとっての覚醒だった。
──私は、縛られることで自由になったのだ。
ベッドの隅に丸められた絹紐が、朝の光を浴びてうっすらと輝いていた。
それを見て、不思議と心が穏やかになった。
何かを失ったような虚無。
でもその奥に、小さく芽吹いた満たされる感覚。
昨夜の私は、確かに“女”だった。
欲望に抗わず、羞恥と快感に震え、
そして、誰かに許された存在だった。
彼の手が寝ぼけたように私の腰に回り、
背中に温かな体温がふたたび重なる。
「……おはよう」
低く掠れた声が、耳のすぐそばで響いた。
私はゆっくりと振り向き、彼の目を見た。
その瞳の奥に、昨夜と同じものがまだ揺れていた。
支配欲と、やさしさと、狂おしいほどの渇き。
でも私は、もう怯えていない。
「ねえ……また、してみたい?」
彼が尋ねたとき、私は静かに微笑んだ。
「うん……もっと深く、縛ってほしい」
言葉を交わすことなく、
再び唇が重なった。
光と熱が交差するベッドの上で、
私たちは、また新しい夜を予感していた。
それは“終わり”ではなく、
目覚めと“始まり”だった。


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