親方の巨根でねとられた妻 今井栞菜
【第1部】沈黙の晩酌──湿った夜気に溶けるまなざし
三重県の郊外。住宅街の外れにある小さな平屋で、**結衣(ゆい)**は夫の帰りを待っていた。
夫・翔太は地元の工務店で土木の仕事をしている。炎天下でも重機の音をかき消すほどの笑い声で仲間を鼓舞するような、誠実で少し不器用な男だ。
その夜は、夫が上司を連れてくると連絡があった。
「親方の田島さん、今日は現場が遠かったから泊まらせてもらうって」
電話越しの翔太の声は、どこか遠慮がちだった。
玄関のチャイムが鳴る。
ドアを開けた瞬間、湿った夜気とともに、汗と土の匂いが入り込んだ。
田島は五十を過ぎた大柄な男で、黒ずんだ腕と額の皺が、長年の現場の厳しさを物語っていた。
「すまんな、嫁さん。急に世話になる」
太い声が家の中に響いた。
テーブルには、結衣が作った煮物と焼き魚、冷やしたビール。
三人で囲む食卓には、どこかぎこちない沈黙があった。
田島は酒をあおりながら、翔太を軽く小突いた。
「おまえも、まだまだだな。女房に甘えてばっかりじゃねぇか」
その言葉に、翔太が照れ笑いする。
結衣は笑顔を作りながら、胸の奥がわずかにざらつくのを感じていた。
外では、遠くの田んぼから蛙の鳴き声。
その音にまぎれて、田島の笑い声が重なる。
低く、湿った声。その響きが、なぜか身体の奥に残った。
夜が更ける。
夫が風呂に入り、田島が「もう一杯だけ」と言って座り直す。
グラスに残った泡を指でなぞりながら、結衣はふと気づく。
田島の視線が、テーブル越しに自分の指先を追っていた。
目が合うと、笑みがゆっくりと浮かんだ。
「翔太の嫁さん、気が利くな。……ええ手してる」
その声が、空気を少し震わせた。
冷房の風が首筋をなぞる。
そこに、ほんのかすかに、誰かの呼吸が混じったような気がした。
【第2部】揺れる灯──触れずに触れる夜の境界
夜更けの家は、静まり返っていた。
夫の翔太はすでに寝室へ入り、寝息がかすかに廊下へ漏れている。
居間には、まだ酒の匂いが残っていた。グラスに映る灯りが、ゆらゆらと波を打つように揺れている。
結衣はテーブルを片づけながら、背中に視線を感じた。
「……すまん、片づけ、手伝うわ」
田島の声は低く、夜気のように重く落ちてきた。
振り返ると、彼はもう立ち上がっていて、湯呑を持ち上げようとしている。
指が触れそうになって、止まる。
その距離、ほんの数センチ。けれど、肌の内側にまで熱が伝わる気がした。
「いいです、私がやりますから」
そう言った自分の声が、少し震えていた。
田島は笑わず、ただ黙って頷いた。
その沈黙が、空気を膨張させるように重くなる。
蛍光灯の下、結衣はふと鏡に映る自分を見た。
少し乱れた髪。頬が紅潮している。
酒のせいなのか、それとも別の何か。
胸の奥で、小さな波紋が広がっていた。
田島が立ち上がり、窓の方へ歩く。
「雨が降りそうだな」
窓の外には、濡れたアスファルトが月明かりを返していた。
静寂のなかで、雨の前触れの匂い――土と空気の混じる甘い匂いが漂う。
その匂いが、なぜか胸を締めつけるように切なかった。
「こんな夜は、眠れねぇな」
田島の声が背後で落ちる。
結衣は答えなかった。
ただ、自分の指先が冷たく、呼吸が浅くなっていくのを感じていた。
何かが、すぐそこまで来ている。
けれど、それが何なのか、まだ言葉にならない。
心が、身体より先に濡れていくような感覚――。
【第3部】朝靄のあと──誰にも聞こえない鼓動の音
夜の終わりが近づいていた。
時計の針が小さな音を刻むたび、結衣はその音を数えることで、自分を落ち着かせようとしていた。
夫の寝息は変わらず穏やかで、まるでこの家の空気すべてが眠ってしまったようだった。
窓の外では、雨が本格的に降り出していた。
瓦を叩く音が、どこか遠くの記憶のように静かだった。
ふと気づくと、テーブルの上には田島のグラスがひとつ残っている。
水滴が外側に流れ落ち、畳の上に小さな円を作っていた。
それを見つめていると、胸の奥に何かが沈んでいくのを感じた。
あの沈黙。
あの視線。
あの、言葉にならなかった一瞬の熱。
田島はすでに布団へと入っているはずだった。
けれど結衣の耳は、その気配を追いかけていた。
隣の部屋のわずかな寝返りの音すら、息をのむように聞こえてしまう。
鼓動が、音として部屋に響く。
それが雨音と溶け合い、境界を失っていく。
やがて、東の空が少しずつ白み始めた。
夜と朝のあいだ――
人が最も正直になる時間だった。
結衣は立ち上がり、カーテンを少しだけ開けた。
雨の匂いの中に、鉄と土と、微かな酒の匂いが混ざっている。
それは、ほんの少し前まで部屋にいた彼の気配そのものだった。
指先でその空気を掬い取るようにして、静かに目を閉じる。
心のどこかが、もう戻れない場所を踏んでいた。
それでも、朝は来る。
光が差し込み、濡れたカーテンが揺れる。
その瞬間、結衣は小さく息を吐いた。
それは祈りのようでもあり、告白のようでもあった。
まとめ──誰にも知られぬまま濡れた心の行方
あの夜、何が起きたのかを説明する言葉は、たぶん存在しない。
ただ、ひとつ確かなのは――結衣の中で「触れられた記憶」が、触れられていないはずの場所を永遠に熱くしてしまったということだった。
欲望とは、行為よりも予感の中にある。
触れられる寸前、目が合うその瞬間にこそ、人は最も深く濡れる。
結衣が感じたのは、まさにその“予感の官能”だったのだ。
朝靄の中、すべての音がまだ眠る時間。
彼女の胸の奥だけが、ひとり静かに、確かに脈を打っていた。
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