お、お義父さんやめて下さい(汗) 私の入浴中、勝手にお風呂に入ってくるのは…ッ!! 西元めいさ
【第1部】夫のいない家と年上の男の気配──「背中を流しますよ」から始まった禁断の夜
結婚して七年目の私・芽衣紗(めいさ)の夜は、だいたい静かすぎる。
夫は中間管理職になってからというもの、終電かタクシー帰りが当たり前になり、
食卓にふたり分の味噌汁が並ぶ日は、指折り数えるほどしかない。
「ごめん、今日も接待で遅くなる」
「またか……。ううん、気をつけて」
そう返事をしながらも、スマホの画面が暗くなった瞬間、胸の奥で何かがしぼむ音がする。
拒絶でも憎しみでもない。
ただ、女として置き去りにされていくような、じわじわとした渇き。
そんな夫の会社に、「レジェンド」と呼ばれる男がいる。
夫の元上司で、今は顧問として週に数回、オフィスに顔を出す西園寺さん。六十手前とは思えない背筋の伸びた体つきと、
大きな手で資料をめくるおだやかな仕草。若い頃はかなりモテたらしいと、何度か夫から聞かされていた。
その西園寺さんが、ある日、我が家にやってきた。
「この辺りまで来ることがあってね。○○くん(夫)が家を買ったと聞いて、一度挨拶しておこうと思って」
ちょうど夫は残業で遅くなる日だった。
夕方に送られてきた「今日も遅くなる、ごめん」というお決まりのメッセージを見て、
私は気持ちを切り替えるように台所に立った。
「たいしたものは作れませんけど……」
緊張混じりにそう言うと、
「家庭の味が一番のごちそうですよ」と、西園寺さんは目尻の皺をやわらかく深めた。
テーブルに並んだのは、肉じゃがとほうれん草のおひたし、簡単な唐揚げ。
夫と同じく、よく食べる人だった。箸の進む音が心地よくて、
空っぽだったダイニングに、やっと「人の体温」が戻ってきたように感じた。
「○○くんは、いい奥さんをもらいましたね」
「そんな……。全然、ですよ。私、至らないところばっかりで」
否定しながらも、その言葉が素肌に直接触れるように、気恥ずかしくて、嬉しい。
夫からはもう何年も聞いていない種類の言葉だった。
食事が終わり、コーヒーを出すと、西園寺さんは時計をちらりと見て、
「悪いね、長居して」と立ち上がった。
夜の匂いを含んだ玄関先の空気はひんやりしていて、
ドアが閉まると同時に、家の中の温度がふっと下がった気がした。
「……お風呂に入ろう」
このままベッドに直行したら、さみしさだけを抱きしめて眠ることになる。
湯気のなかに溶かしてしまいたくて、私はバスルームへ向かった。
湯船にお湯を張り、髪をほどく。
鏡の中で、濡れた髪が肩から胸元へと貼りつき、
かつて夫が「好きだ」と言ってくれたラインをなぞる。
(……最近、触れられてもいないのに)
素肌に浴びるシャワーの熱さが、
自分の手で自分の身体を確かめている事実を、ひどく生々しく浮かび上がらせる。
そのときだった。
「ピンポン」
玄関のチャイムが、湯気の膜を破るように鳴った。
「えっ……?」
慌ててバスタオルを巻き、髪から滴る水を気にしながらインターホンを覗き込むと、
モニターには、つい先ほど帰っていったはずの西園寺さんの顔が映っていた。
『すみません、芽衣紗さん。傘、ここに忘れてしまったみたいで…』
玄関脇の傘立てには、見覚えのない紺色の折りたたみ傘。
思わず笑ってしまう。
「はい、すぐお持ちしますね」
そう答えてしまったのは、
タオル一枚の自分の姿を、咄嗟にイメージできなかったからだ。
玄関までの短い廊下を、バスタオルを押さえながら小走りに進む。
ドアを開けると、夜の湿った空気と一緒に、彼の落ち着いた香りがふわりと入り込んできた。
「すみません、こんな時間に。あ……」
私の格好を見た西園寺さんの視線が、一瞬、言葉を失う。
そのわずかな沈黙の重さが、タオルの下の素肌まで熱くした。
「い、今、お風呂に入ってて……。これ、傘、ですよね?」
「失礼しました。インターホンの声が、まさか……その、入浴中だとは気づかずに」
眉尻を申し訳なさそうに下げながらも、
彼の視線は礼儀正しく私の顔だけを見るように固定されている。
それが逆に、肩や胸元、タオルの隙間を意識させた。
傘を手渡し、早くドアを閉めようとした、そのとき。
「……背中、流して差し上げましょうか」
彼の口から零れた言葉に、時間が止まった気がした。
「え……?」
「○○くん(夫)には、若い奥さんを任せきりにしすぎだと、いつも説教しているんです。
仕事ばかりじゃなくて、ちゃんと、奥さんの疲れを取って差し上げなさい、とね」
冗談めかした口調なのに、その目はまっすぐだった。
「もちろん、迷惑でしたらすぐに帰ります。
ただ……さっきの食卓を見ていて、あなたのことが少し、気になりまして」
気になった──その言葉が、胸の奥の渇きに落ちて、音もなく溶けていく。
「……ダメ、だと思います。普通は、ダメですよね」
そう言いながら、私はドアを完全には閉めなかった。
彼の返事を待つように、ほんの少しだけ開いた隙間から、室内の明かりが廊下に漏れている。
「普通、は。そうでしょうね」
「……」
「でも、普通で埋まらない寂しさも、あると思うんです」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥で、誰かがそっとスイッチを入れる感覚があった。
私はゆっくりと、ドアを大きく開いた。
「……背中だけ、ですよ?」
自分でも驚くほどのかすれた声で、そう告げていた。
【第2部】背中に落ちる指先と息遣い──「やめてください」の裏側で目覚めた身体のスイッチ
バスルームに戻ると、湯気が彼の眼鏡をすぐに曇らせた。
「失礼」と言って外す仕草が、妙に色っぽく見える。
「本当に……背中だけですから」
そう念を押しながら、私はバスタオルを外し、浴槽の縁に膝をついて座った。
鏡に映る自分の背中は、湯気と薄い汗で、しっとりと光っている。
西園寺さんは、私と向かい合わないように、少し離れた位置に腰を下ろした。
大きな手にボディソープをとり、よく泡立てる。その音が、やけに大きく聞こえる。
「冷たくないですか?」
「だ、大丈夫です……」
まず、肩に泡が触れた。
思っていたよりもずっと、優しい。
ゴシゴシと力任せにこするのではなく、
まるで大切なものを確かめるように、円を描いていく。
「凝ってますね。ここ、痛くないですか?」
肩甲骨のあたりを、指の腹で軽く押される。
そこは、夫にも「そんなところ、疲れるの?」と笑われて、触れられたことのない場所だった。
「んっ……そこ、いつも重くて……」
思わず声が漏れる。
「仕事も家事も、全部ひとりで背負っている人の背中です」
ぽつりと落とされた言葉に、心のどこかがぐらりと揺れた。
(見られている……)
夫にも、友達にも、言う前に飲み込んできた疲れや不満を、
この人は、私の皮膚の下から読み取ってしまったかのように言い当てる。
泡立った指が、首筋から肩へ、肩から背中のくびれへと、ゆっくり降りていく。
こそばゆさと心地よさの狭間で、呼吸が浅くなる。
「やめ、てください……。そんなふうに言われると……」
「どんなふうに、ですか?」
すぐ後ろから落ちてくる低い声。
背中と彼の膝との距離が、さっきよりも近くなっているのが分かった。
「まるで……私が、可哀想な女みたいで」
「可哀想、なんて思っていませんよ」
左の肩に、あたたかな掌が重ねられる。
「ただ、誰にも甘えられない人ほど、自分を雑に扱う。
湯船につかる時間も、きちんとご飯を食べる時間も。
そして──自分の身体を、女として大事にしてもらう時間も」
「っ……」
最後の一言が、背骨に沿って落ちていく。
その言葉だけで、胸の奥のどこかが、ひどく痛んだ。
「やめてください……。そんな、こと……」
唇で否定しながら、私は背中を反らせることができなかった。
むしろ、彼の指先の動きを、深く感じ取ろうとする自分がいる。
泡の感触が、腰の少し上で止まる。
そこから下へ行くか、引き返すか──浴室の空気ごと、時間が固まる。
「ここから先は、芽衣紗さんが決めてください」
小さくそう告げる声。
私の返事次第で、この夜の意味がまったく変わってしまうことを、彼は知っているのだ。
「……夫の、元上司ですよね」
「ええ。だからこそ、軽い気持ちでは触れません」
「なのに、どうして……」
どうして、こうして私の背中に触れているのか。
どうして、私の中の渇きに気づいてしまったのか。
どうして、こんな夜に、忘れ物なんてして戻ってきたのか。
質問は山ほどあったのに、
口から出たのは別の言葉だった。
「……そんなに、優しくしないでください」
泡だらけの手が、腰のくびれに沿って静かに滑る。
その優しさが、いちばん残酷だと分かっていながら。
「優しくしてほしくないのなら、やめますよ」
「やっ……」
反射的に、私は彼の手首をつかんでいた。
止めるためではなく、繋ぎとめるために。
自分の指が、彼の腕を掴んだまま離さない。
それは、口から出る「やめてください」とは真逆の意思表示だった。
「……続けて、ください」
囁くようにそう言った瞬間、
彼の息が、私のうなじにかすかに触れた。
泡の下で、指先の圧が少しだけ強くなる。
腰回りのラインをなぞる動きが、だんだんと、マッサージでは説明できない意味を帯びていく。
「ん……っ」
声を飲み込みきれずに漏らすたび、
彼の指は少しだけ動きを変えた。
まるで、どの触れ方に私の身体が応えるのか、静かに探るように。
(だめ……。こんなの、だめなのに)
頭の中では何度も繰り返された言葉が、
身体のどこにも届かない。
届く前に、湯気と一緒に昇華してしまう。
背中を洗うはずの手が、
やがて、背骨を伝って下へ、下へと迷い込んでいく。
湯船の縁を掴んだ指に、力が入る。
「……西園寺さん」
「はい」
「私、今、すごく……」
続く言葉を探していると、
彼の掌が、腰の下あたりでそっと止まった。
「無理は、させたくありません」
低く抑えた声に、
私の中の本音が、もう一枚、皮を脱ぎ捨てる。
「無理、じゃないです。むしろ、逆で……」
呼吸を整えながら、私は振り向かずに言った。
「ずっと、誰かに、こうやって触れられたかったんだと思います」
その告白は、浴室のタイルに跳ね返り、
私自身の耳にも、はっきりと届いた。
次の瞬間、背中に当たる彼の手の温度が、少しだけ上がった気がした。
【第3部】「ダメです」が溶けていく瞬間──年上の男に抱かれて知った妻としての渇きの正体
湯船のお湯を少し抜き、私は浴槽の中にゆっくりと腰を下ろした。
背中にはまだ、彼の手の残り香のような感覚がまとわりついている。
「……こちらを向いてしまうと、もう引き返せない気がして」
振り返る勇気が出ないまま言うと、
背後から、くぐもった笑い声が聞こえた。
「引き返したいんですか?」
「……分かりません」
「なら、一度だけ。引き返さなかった世界を、見てみませんか」
その言葉は、誘惑というよりも提案に近かった。
選ぶのは、あくまで私自身。
ゆっくりと振り返ると、
湯気越しに見えた西園寺さんの顔は、思っていたよりもずっと静かで、真剣だった。
「芽衣紗さん。嫌なら、今ここで僕を追い返してください」
「嫌じゃ、ないです。だから困ってるんです」
自分でも可笑しくなるような矛盾した告白に、
彼は「正直ですね」と囁き、私の頬に濡れた指先を触れさせた。
そのまま、距離がゆっくりと縮まる。
唇が触れる寸前、
私は最後の抵抗のように目を閉じた。
最初のキスは、驚くほど穏やかだった。
奪うというより、確かめ合うような、
長く、深い、静かな口づけ。
「……んっ」
浴室に小さな水音と、
かすかな自分の喘ぎ声が混ざり合う。
キスの合間に、彼の手が、
さきほど泡でなぞった背中や肩を、あたたかく包み込む。
それは、荒々しさとは無縁の、
けれど確かに、女として求められていると分かる触れ方だった。
「やめて……って、言うべきなんでしょうね。きっと」
唇を離した一瞬の隙にそう呟くと、
彼は真面目な顔で私を見つめた。
「言いたいですか?」
「……言いたくない、です」
「なら、言わなくていい」
たったそれだけの会話で、
私の中の「罪悪感」と「欲望」の天秤が、静かに傾いた。
肩から胸元へ、胸元からお腹へ。
彼の手がなぞるルートに合わせて、
皮膚の下の血が、一斉に色を変えていくような感覚。
「こんなふうに触れられるの、久しぶりなんでしょう?」
耳元で囁かれ、
私は観念したように小さく頷いた。
「いつ以来か、覚えていないくらいです……」
「それは、旦那さんの罪だ」
きっぱりと言い切る声音に、
私は思わず笑ってしまう。
「そうやって、私を甘やかさないでください」
「甘やかしてほしいんでしょう?」
図星を刺されて、言葉を失う。
その沈黙の意味を、彼は正確に読み取っていた。
浴室の隅で静かに灯るダウンライトが、
水滴のついたタイルにやわらかい影を落とす。
その影の中で、私の身体は、
妻として閉じこめてきた欲望を、ひとつずつ解き放っていった。
「……もっと、触れてください」
気がつけば、お願いするような声が出ていた。
彼の手を、自分の手で導くようにして。
「ここも、ちゃんと……女なんだって、思い出したいんです」
たどたどしい言葉と一緒に、
自分でも見ないようにしてきた部分まで、
ひとりの女として認めてほしいと願っていることに、気づいてしまう。
彼は、その願いを、静かに受け止めた。
「分かりました」
短い返事のあと、
彼の手つきから「ためらい」の温度が少しずつ消えていく。
唇が、首筋から鎖骨へ、鎖骨から胸元へと降りてくるたびに、
身体の奥のスイッチが増えていくようだった。
「やっ……そんなところ……」
「ここも、好きなんでしょう?」
「ちがっ──あ、んっ……」
否定すればするほど、
身体が勝手に肯定してしまう。
湯気の中で、喘ぎ声は柔らかく溶けていき、
それでも耳には、はっきりと届いていた。
どこか遠くで、
風呂場のドアがきしむような音がした気がした。
けれど、現実感はもう薄れていた。
「芽衣紗さん」
濡れた髪を撫でられながら、名前を呼ばれる。
夫以外の男の口から、自分の名前がこんなふうに響くのを、
初めて知った。
「今からすることは、全部、あなたが望んだことです。
僕は、無理矢理は何もしません。
それでも、嫌になったら、すぐに言ってください」
確かめるようにそう念を押されて、
私は彼の首に腕を回した。
「……やめてほしかったら、こんなこと、しません」
返事の代わりに、
自分から唇を重ねる。
そのあとどうなったのか、
細部をひとつひとつ思い出そうとすると、
記憶の輪郭は湯気のようにぼやけてしまう。
ただ、はっきり覚えているのは、
いつの間にか、私が自分から彼の身体を求めていたこと。
「もっと……」
「いいんですか?」
「いいとか悪いとか、今は考えたくないです……。
今だけは、女として見てほしい」
その願いに、彼は応えた。
やさしく、しかし確かに、私をひとりの女性として抱いた。
どこまでが浴室で、どこからが寝室の記憶なのか。
タオルやガウンの感触が混ざり合って、
時間の線は途切れ途切れになる。
ただ、絶頂に近づくたびに、
私は何度も「ダメです」と口にしていた。
「ダメ……もう、ダメ……」
でも、その「ダメ」は、
拒絶ではなく、許しを乞う合図だった。
「大丈夫ですよ。ここにいる間は、全部、許される」
そう囁かれた瞬間、
私の中の最後の理性の糸が、ぷつりと切れた。
「……っ、あ……!」
声にならない声が、暗い天井のほうへ吸い込まれていく。
押し寄せる波の中で、
私は妻でも、嫁でも、誰かのものでもなく、
ただの「私」に戻っていた。
どれくらい時間が経ったのか分からない。
肩で息をしながら、彼の胸に頭を預けていると、
規則正しい鼓動が耳に届いた。
「……こんなこと、ずるいですよね」
ぽつりと漏らすと、
彼は少し考えるように息を吸ってから、答えた。
「ずるいのは、世の中かもしれません。
真面目な人ほど報われず、
我慢強い人ほど誰にも甘えられない」
「……」
「でも、今夜のことは、ふたりの秘密です。
誰かに裁かれる必要はない」
そう言って、彼は私の髪を、
ゆっくりと何度も撫でた。
その仕草は、男のものというより、
長年、部下を見守ってきた上司の手つきにも似ていた。
(きっともう二度と会えなくても、
この感触だけは、忘れられない)
そう思った瞬間、
胸の奥に、甘くて苦い痛みが広がった。
まとめ 妻である前にひとりの女だった──浴室の出来事が教えてくれた「渇き」の正体
翌朝、目覚めたとき、
隣に彼の姿はなかった。
リビングのテーブルには、
きちんと畳まれたメモだけが置かれていた。
《昨夜のことは、すべて忘れて構いません。
僕にとっては、あなたの痛みも喜びも受け止める、大切な夜でした。
○○くん(夫)を、これからも支えてあげてください。
彼の人生には、あなたのような人が必要です。
西園寺》
丁寧な文字をなぞりながら、
私は、どうしようもなく涙が出てきた。
忘れていいと言われているのに、
忘れられるはずがなかった。
あの夜、
私は「妻」という役割の外側に立たされ、
自分の身体と心がどれほど渇いていたかを、思い知らされた。
夫への愛情が消えたわけではない。
むしろ、
このまま乾ききってしまえば、
夫婦であることすら続けられなくなると気づいたからこそ、
私は誰かの腕の中で、ひと晩だけ「女」として息をし直したのかもしれない。
浴室で交わされた言葉や、
背中に落ちた彼の指の温度、
湯気の向こうのまっすぐな視線。
それらはすべて、倫理的には間違っていると分かっている。
だけど同時に、あの夜の体験が、
私に自分の渇きと向き合う勇気を与えたことも、否定できなかった。
それからしばらくして、
私は夫に、初めて本音をぶつけた。
「仕事を頑張ってるのは分かるけど、
私だって、女として見てほしい。
肩も、背中も、心も、全部、撫でてほしい」
言いながら、
ふと、あの夜の浴室の光景がよぎる。
「急にどうしたの?」
戸惑う夫の表情を見て、
私は苦笑いした。
「急じゃないよ。ずっと前から、言えなかっただけ」
あの夜に触れたことは、一生、彼には言わない。
でも、あの夜の体験がなければ、
私はきっと、何も言えないまま、
妻という役割の殻の中で干からびていっただろう。
浴室は、身体の汚れを落とす場所だと思っていた。
けれど、あの夜、
同時に心の澱も浮かび上がらせてしまったのだ。
「お風呂、一緒に入る?」
珍しく夫がそう言った夜、
私は少しだけ戸惑いながらも、
「うん」と頷いた。
湯気の向こうに立つ夫の姿は、
あの夜の彼とはまったく違う。
それでも今なら、
「もう一度、夫を選び直す」という感覚で、
彼の隣に立てる気がした。
あの禁断の夜は、
誰にも言えない、私だけの秘密の体験談だ。
倫理的に正しいかどうかではなく、
妻である前に「ひとりの女」として、
自分の渇きと快楽の境界線を知ってしまった夜。
湯船に浸かるたび、
あのとき背中を撫でた手の感触が、
ふと蘇る瞬間がある。
「やめてください」と言いながら、
本当は「離れないで」と願っていた自分。
あの夜の私を、今の私は、
完全に否定することも、完全に肯定することもできない。
ただひとつだけ、はっきりと言えるのは──
あの浴室での出来事が、
私の中の「女」としてのスイッチを、
確かにもう一度、入れてしまったのだということ。
そのスイッチは、
もう二度と、完全には切れないまま、
私の毎日の呼吸と鼓動を、
今もどこかで静かに早めている。




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