夜間学校に通う‘ 人妻 ’同級生と時を忘れて求め合った青春やり直し性交ー。 今井栞菜
夜間学校という設定が象徴的で、日常の延長線上に「再生の光」を見出す過程が丁寧に描かれています。
主人公・栞菜の静かな眼差し、少しずつ解けていく孤独、そして年下のクラスメイトとの心の交流──
そのすべてが大人の恋愛の「静かな熱」を感じさせます。
派手なドラマではなく、息づかいと沈黙で感情を描く繊細な作品。
忘れかけていた“ときめきの記憶”を思い出させてくれる、上質なヒューマンラブストーリーです。
【第1部】夜の教室で息づく──忘れかけた鼓動が目を覚ます
35歳、佐伯 遥。
結婚して十年、東京の郊外・国立市で夫と暮らしている。
夫は外資系の仕事で帰りが遅く、家の灯りをともすのは、いつも彼女ひとりの手だった。
鍋の湯気も、ニュースの音も、リビングの時計の針も──
夜の静けさをいっそう際立たせるだけ。
そんな生活に、彼女はふと息苦しさを覚えるようになった。
「自分で稼ぎたい」「何かを学び直したい」
そんな理由で選んだのが、夜間のビジネススクールだった。
教室の蛍光灯の白い光。
ノートに走るボールペンの音。
十数年ぶりの“学ぶ時間”に、最初は胸が高鳴った。
けれど、周囲の生徒は二十代前半ばかり。
アルバイトの話、恋人の話、SNSの話。
その輪の中に、彼女は居場所を見つけられなかった。
名札の「佐伯遥」という文字が、教卓の上で妙に浮いて見える夜が続いた。
そんなある夜、授業後の電車で、隣に座った青年がいた。
「同じクラスですよね、佐伯さん」
彼は自分を“早瀬 一真(はやせ かずま)”と名乗った。
黒のスーツに小さな鞄。営業職らしい疲労の影が顔に残る。
年齢を聞けば、二十九歳。
同じく、転職を目指して夜間に通っているという。
「なんだか、場違いな気がしますよね」
「……ええ。私も、若い人たちの中だと、少し浮いてるかもしれません」
その一言に、彼の目が柔らかく笑った。
電車の窓に反射するその表情が、街の灯りと重なって淡く滲んだ。
次の駅で彼が立ち上がり、軽く会釈して降りていったあと、
遥はしばらくその席から動けなかった。
指先には、会話の余熱のような、かすかな震えが残っていた。
家に帰ると、夫はもう寝室にいて、
リビングにはテレビの光だけがぼんやりと揺れている。
ワイングラスを手に取り、窓辺に立った。
外には、同じように帰り道を歩く人々の影。
その中に、さっきの青年の背中が混じっているような錯覚が、ふと胸を掠めた。
──いつからだろう。
誰かの視線を思い出して、胸が痛むようになったのは。
【第2部】雨の図書室で濡れた指先──揺らぐ境界が恋に変わる夜
六月の雨が、校舎の窓を静かに叩いていた。
その音はまるで、誰にも聞こえない心臓の鼓動のように規則正しく響いていた。
授業が終わると、ほとんどの学生は傘をさして急ぎ足で駅へ向かっていった。
遥は鞄を胸に抱えたまま、図書室へと足を向けた。
参考書を借りて帰るだけ──そのつもりだったのに、
入口のガラス扉を押した瞬間、奥の席に一真の姿が見えた。
白いシャツの袖を少し折り、ページを指先で押さえる仕草。
蛍光灯の下で、その手の甲が光を受けて淡く浮かぶ。
彼は顔を上げて、遥を見つけると、微笑んだ。
「佐伯さん、今日も遅くまで?」
「ええ……雨がひどくて。少し、時間をつぶそうかと」
同じ机の端に座ると、湿った紙の匂いと、彼の微かな整髪料の香りが混ざりあった。
外の雨が、二人を外界から隔てる壁のようだった。
図書室の空気はひどく静かで、
ページをめくる音と、呼吸の間のわずかな動きが、やけに大きく感じられた。
「佐伯さんって、結婚されてるんですよね」
彼の声は低く、控えめに響いた。
「……ええ。あなたは?」
「してません。たぶん、まだ誰とも、うまく向き合えなくて」
一瞬、言葉が途切れた。
ページの隙間に指を挟んだまま、二人とも目を伏せる。
その沈黙が、不思議と心地よかった。
──触れたわけではない。
けれど、肌の内側がじんわりと温かくなる。
彼の手が机の上でわずかに動いた。
そこに、遥の視線が吸い寄せられる。
雨粒が窓を滑り落ちるたび、彼の指先の輪郭が滲み、光の中で揺れた。
「……もう少し、話しててもいいですか」
彼の声が、耳の奥に残る。
遥は頷いた。
そして、自分の声がわずかに震えていることに気づく。
「ええ。……帰りたくないから」
その瞬間、空気が変わった。
蛍光灯の明かりが少しだけ滲んで見える。
呼吸のたびに胸が上下し、心の奥の何かが、そっと溶けはじめる。
二人の間に本が一冊置かれたまま、時間が止まる。
手は触れない。
けれど、思考の境界がほどけていく。
外の雨脚が強まる。
雷の音に、一真の肩が小さく揺れた。
その一瞬の震えに、遥の心も反応した。
自分でもわからない衝動が胸を満たしていく。
“触れたい”という言葉を、飲み込む。
けれど、視線だけがその言葉を告げていた。
──何も起きていないのに、
身体のどこかが、確かに反応している。
帰り道、傘の中に二人の呼吸がこもる。
肩がふれあうたび、湿った空気が揺れる。
駅の灯りが近づいても、誰も言葉を発しなかった。
それでも、別れ際に交わした目だけは、
明らかに、もう引き返せない領域を映していた。
【第3部】夜の雨が止むころ──二つの鼓動がひとつになる瞬間
終電を逃した夜だった。
雨はいつの間にか小降りになり、校門の外の街灯が濡れた道を鈍く照らしていた。
「タクシー、呼びましょうか」
そう言った一真の声が、いつもより近くに響いた。
「……平気。歩いて帰るわ」
遥は笑ってそう答えたが、その笑みの奥で、
自分でもどうしてそんなことを言ったのか分からなかった。
駅までの道は長く、傘を二人で差すには少し狭かった。
雨粒がポツリと肩に落ちるたび、
彼の体温がわずかに伝わる。
その熱が、雨よりも確かに、彼女の肌を湿らせていく。
「寒くないですか」
一真の手が、そっと彼女の肩に触れた。
それは軽い仕草だった。
けれど、遥の呼吸は一瞬で乱れた。
──それは、何年ぶりの温もりだっただろう。
夫の指先にすら感じなくなっていた“人の体温”。
それが今、静かに自分の奥に滲み込んでいく。
「……ダメね、私」
自嘲気味に笑った声が、雨の音に紛れた。
「どうして」
「止められないの。もう、戻れないって分かってるのに」
その言葉に、一真は答えなかった。
ただ傘を傾け、彼女の顔を見た。
街灯の光が、彼の瞳の中で揺れていた。
その瞬間、すべてが静止したように感じた。
雨も、時間も、罪も──ただ二人の呼吸だけが、確かな現実として残っていた。
遥は、ほんの一歩だけ近づいた。
その距離は、たった数センチ。
けれど、それは十年分の渇きと、幾千の言葉よりも深い“間”だった。
頬に触れる前に、すでに世界が変わっていた。
空気が、音が、光が、
すべて新しい意味を帯びて、肌の上に降り注いでいた。
──唇が重なった。
それは決して激情ではなかった。
静かな祈りのようで、
「まだ、生きている」と確かめ合うための呼吸だった。
触れ合うほどに、遠ざかっていた記憶が溶けていく。
過去も未来も、名前すら曖昧になる。
そこにあるのは、ただ“今”だけ。
彼の胸の音と、自分の胸の音が、
ゆっくりと重なり、
まるで同じリズムを刻み始めたかのようだった。
外では、雨が完全に止んでいた。
世界はしっとりと静まり返り、
その沈黙の中に、二人の息づかいだけが小さく残っていた。
遥は、瞼を閉じた。
その奥で、何かが確かに終わり、そして始まっていた。
まとめ──触れたのは肌ではなく、生の記憶だった
翌朝、ベランダから見えた空は、
どこまでも澄んでいた。
夜の湿り気を孕んだ風が、髪をそっと揺らす。
遥はコーヒーを淹れながら、ふと思う。
あの夜、自分が求めたのは、愛でも背徳でもなかった。
それは、生きているという実感。
時の流れに埋もれ、
“女”という輪郭を失いかけていた自分を、
誰かのまなざしがもう一度、
この世界に引き戻してくれたのだ。
夫の寝息が、寝室の奥から微かに聞こえる。
その音を聞きながら、
遥はグラスの水滴を指でなぞった。
──あの夜の雨の感触が、
まだ指先に、微かに残っている気がした。
コメント